ニーチェ


メガラのテオグニスについて(訳注 1


(シュール・プフォルタ卒業時の記念作品 1864年秋)(訳注 2)  m209


訳者の凡例 赤い色で表示した文字は、全て訳者が挿入したものであり、ニーチェの原文にはない。

      ギリシア語やラテン語の固有名詞の長母音は短母音として表記した。つまり、ソークラテースはソクラテスと表記した。

      ほとんどの箇所で、ニーチェは紀元前 xyz 年と書かずに xyz 年と書いて紀元前を省略しているが、読者の便の為に紀元前を補足した。

      青色で示した m123 はムザリオン版のページ数を示す。


訳注 1 これは Nietzsche, F., De Theognide Megarensi. の全訳である。下記のテキスト(ムザリオン版)を使用した。 Nietzsche, F., Gesammelte Werke, Musarionausgabe, I, München 1922, pp.209-253. また訳注で Nietzsche, F., Werke und Briefe, Historisch-kritische Gesamtausgabe, Werke III, München 1935, pp.21-64. に言及する際は、HK 版と表記した

訳注 2 ニーチェはほぼ十四歳から十九歳までシュール・プフォルタという学校で学んだ。その学校では卒業直前の学期に、既定の沢山の宿題をやるか、それとも任意の題名の論文をラテン語で書くか、生徒は選択することができた。 Deussen, P., Erinnerungen an Friedrich Nietzsche, Leipzig 1901, p.11.


I. テオグニスとその時代のメガラ人の都市国家。

  1. 六世紀のメガラ人の都市国家の革命を概説する。

  2. テオグニスの生涯の年代を計算して調べる。

  3. テオグニスの生涯の個々の事件はテオグニスの詩から分かる。

  4. ヴェルカーはテオグニスの生涯を違う順番に並べている。

II. テオグニスの詩について。

  5. テオグニスの詩の運命と古代人の評価について。

  6. テオグニスの詩について今の人の評価。

  7. テオグニスはキュルノスの為に書いた詩に『グノーモロギア(格言集)』という題名をつけなかった。

  8. テオグニスはこのエレゲイア詩を生涯の特定の時期だけに書いたのではない。

  9. テオグニスはこのエレゲイア詩で精神や感情の有様を表現しているが、

    教師が格言を授けるような態度はとっていない。

  10. 宴会の詩もテオグニスの生涯の特定の時期だけに帰すべきではない。

  11. テオグニスの詩の技法について。

  12. 宴会の詩の主題を示す。

  13. キュルノスとキュルノスの為に書いたエレゲイア詩について。

III. 神々、道徳、都市国家に関するテオグニスの考えを検討する。 m210

  14. 都市国家、神々、人間についてテオグニスの考えが、どのようにして相互に

    密接に関係するのか。

  15. ギリシアの貴族の地位と権力は何に基づいていたのか。

  16. 全てが変わってもテオグニスは考えを変えなかったのか。

  17. 老いてからテオグニスが少し考えを変えたとみなす根拠は何か。


 テオグニス研究で今日まで第一の地位を占めている Fr. Th. ヴェルカー(訳注 3)は詩の位置を変えてより良い順序に並べるように初めて配慮しただけでない。古代の著述家たちの散在ししばしば矛盾する全ての証言を、ヴェルカーはとても注意深く比較しとても鋭く検討し、削除したり校訂して、テオグニスの詩の特徴とその時代とメガラ人の都市国家について、以前の校訂者より正確で正当な結論を出した。だが、この卓越した学者が既に成し遂げて仕上げたその研究を誰も信用しないのだろう。そのせいで、ほとんど何も新しい成果はない。それまでずっと、文献学者間の論争はテオグニスに用いるべき特別で批判的な方法に基づいていなかった。そのため、ベルンハーディがテオグニス研究で、広範に検討し校訂すべきだと主張した(訳注 4のが正しかった事を忘れてはならない。


3 Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. を指している。前半の 144 ページはテオグニスをラテン語の文章で解説していてページ数をローマ数字で表記している、後半の 150 ページはテオグニスのギリシア語のテキスト。現存するテオグニスの写本は、偽作の詩がある、同じ詩や似た詩がかなり離れた行に繰り返し現れる、詩が並んでいる順番が年代順でもなく主題ごとにまとまっている訳でもなく無秩序、あちこちに意味不明の箇所がある、などの問題がある。それでヴェルカーは、主題ごとにまとめて詩を配列し直して、偽作は最後にまとめた。そのせいでその他のテオグニスのテキストとは詩の行数の表示が違う。ヴェルカーの前半の解説部分の多くの箇所のラテン語の文章を、ニーチェはこの論文のあちこちに書き写している。このヴェルカーの本を、ニーチェはこの論文の最重要資料として用いたようだ。

 またニーチェは後に大学生の時にテオグニスに関する論文 "Zur Geschichte der Theognideischen Spruchsammlung", Rheinisches Museum für Philologie, N.F., XXII, 1867, pp.161-200. を書くが、その論文の見出し語の理論も、ヴェルカーが CV-CVII ページで初めて唱えた説をニーチェが継承発展させたものだという。Hudson-Williams, T., The Elegies of Theognis, New York 1979 (Reprint of London 1910), p.13.

 またヴェルカーは前半の解説部の XX-XXX ページにおいて、ギリシア語のアガトスとカコスという単語は道徳的に「善い」「悪い」又は「善人」「悪人」という良く知られている意味以外に、身分が「高貴な」「卑しい」又は「貴族」「賎民」という意味があったことを示している。そしてラテン語やドイツ語の類似例もあげている。さらに、アガトスとカコスの身分を意味する用法は、ソクラテス哲学が終わらせたようだと述べている。"Quae ut in desuetudinem abiret, per philosophiam Socraticam videtur effectum..." Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. XXV ページ 13-14 行参照。

訳注 4 この文は、Bernhardy, G., Grundriss der griechischen Litteratur, 2. Bearbeitung, 2. Theil, Halle 1856, p.458. "Die Konjekturalkritik bleibt hier ein freier Spielraum eröffnet." をラテン語に訳したもの。


 他の点ではヴェルカーに同意するのを私は拒まない。だが以下の二点ではヴェルカーに従うことはできないと思う。第一に、テオグニスの生涯に関しては詩から調べるべきだとヴェルカーは述べたが、何らかの歴史的事実からもっと確実で正確な事がおそらく沢山分かるだろう。第二に、今日テオグニスの名で呼ばれている詩の大部分は、特に宴会と飲酒の詩は全て、テオグニスに帰してはならないとヴェルカーは考え、さらにテオグニスの詩が主に格言的なのは明白だと熱心に唱えた点である。 m211 ところで、その時代の道徳という研究分野に於いて、テオグニスがどれほど重要かを、私が知る限り誰も示そうと試みなかったが、この点でもヴェルカーの足跡に従うべきだった。ヴェルカーはこの問題にも最初に熱心に携わり、アガトスとカコスという言葉の政治的な用法について新しくて正しい意味を明かにした。

 それゆえに最初に、テオグニスの時代とメガラ人の都市国家の状況を詳細に検討する。その後にテオグニスの作品について考察し、本来の題名、形式、正確な主題を調べる必要がある。最後に、テオグニスが有名になった原因である、テオグニスの生涯の道徳観の特徴を詩の内容から調べる。

 実際のところ、いわば学問のほんの入り口に私はいるのだが、遠慮せずに非常に高名な人物と論争し、多くの点では敢えて反対するだろう。この研究の最初の入り口になった人の方法に熱心に従い、それが誤りだと思う場合は自説を慎重に証明するという仕方で、このテオグニス研究の契機となった人に恩返ししようと努めなければ、かえって申し訳ないだろう。



                       I


     テオグニスとその時代のメガラ人の都市国家


1. 殆ど全てのドリス人の都市国家と同様に、メガラ人の都市国家でも、権力と祭儀を握っていた貴族たちが、都市から離れて住んでいる人々や貧しさに苦しんでいる人々や無教養な人々など、昔からこの体制に不満を抱いている住民たちを支配していた。 m212 だが肥沃な地域に建設された植民都市とメガラの貿易が徐々に盛んになって、植民都市から母国メガラに作物や贅沢が流入した時に、貴族と平民の間に対立が生じた。その結果、テアゲネスが民衆の心を掴んで民衆に支持され、殆ど全ての僭主と同じ巧妙な方法で都市国家を支配した(訳注 5。アリストテレス『弁論術』I,2,19. 『政治学』V,4,5. (訳注 6。これがいつ起こったのか調べても、キュロン(訳注 7がアテネで専制支配をしようとしていた時にテアゲネスが僭主政治をした事以外に何も確かな事は分からない。貴族たちがテアゲネスを追放したのはおそらく紀元前600年頃だろうが、正確に何年なのかはよく分からない。


訳注 5 ここまでの内容は、おそらくドゥンカーのドイツ語の文章をニーチェがラテン語で要約したもの。 Duncker, M., Die Geschichte der Griechen, II, Berlin 1857, p.54.

訳注 6 アリストテレスは紀元前四世紀の有名な哲学者でプラトンの弟子。ヴェルカーはおそらく『弁論術』は Buhle, T., Aristotelis Opera Omnia Graecae, IV, Biponti 1793. 『政治学』は Schneider, J. G., Aristotelis Politicorum Libri Octo Superstites, I-II, Francofurti ad Viadrum 1809. を用い、それらの巻・章・節でテキストの箇所を明示した。今日一般的な、1830 年代にオクスフォードで出版されたベッカー版の巻・章・節では以下のようになる。括弧にはベルリンで出版されたベッカー版(アカデミー版)のページ数と行数を示す。ベッカー版だと『政治学』V,5,9. (1305a18) 『弁論術』I,2 (1357b31) になる。

訳注 7 キュロンはアテネの有力者でテアゲネスの娘婿。テアゲネスの援助でアテネの僭主になろうとしたが失敗した。


 テオグニスの生涯の大部分はまさしくこの紀元前六世紀に属したのだから、まずその時代のメガラの都市国家の状況について何か伝えている古代人の証言を集める必要がある。残念ながらそれは少なくて短い。

 サラミス島(訳注 8をめぐってアテネとメガラの間に戦争が起きたが、勝敗がはっきりしないまま紀元前570年に終わり、双方の都市国家がスパルタ人を仲裁者に選んだ。メガラ人は血筋でスパルタ人に近い上に(訳注 9、同族の都市国家スパルタの同盟国だったにもかかわらず、五人の仲裁者はこの島をアテネに帰属させた。(訳注 10


訳注 8 サラミス島はアテネとメガラのすぐ近くにある島。紀元前 480 年にサラミス島とギリシア本土の間の狭い水道(海峡)でギリシア連合艦隊がペルシア艦隊に勝利したサラミス海戦の場所として有名。

訳注 9 メガラ人もスパルタ人もともにドリス人。

訳注 10 この段落の内容はグロートに依っているのだろう。Grote, G., History of Greece, III, 2. edition, London 1849, p.124.


 紀元前 559 年に---クリントンとラウル・ロシェットが確定した年代(訳注 11---メガラはヘラクレイア・ポンティカ(訳注 12に植民都市を築いた。そこで、ドリス人の他の多くの制度と同様に、メガラと同じように部族が分割されたのは、以下を示しているのだろう。つまり プラス『僭主政治について』 I, 84 (訳注 13が推測したように、テアゲネスが追放された後で多数の貴族が民衆に苦しめられて、国を去って新たな居住地を求めた。そのようにとても多数の貴族が祖国を去るのを平民は目にして、その後かなり長い間、人心は鎮まった。


訳注 11 Clinton, H. F., Fasti Hellenici, I, New York 1965? (Reprint of Oxford 1834), p.270. 但し、Plass, H. G., Die Tyrannis, Bremen 1852, I, p.83, n.5. "Clinton und Raoul=Rochette setzen bestimmt das J. 559 an." とあるので、ニーチェはプラスに依ったのだろう。

訳注 12 ヘラクレイア・ポンティカは黒海沿岸の都市国家。

訳注 13 Plass, H. G., Die Tyrannis, Bremen 1852, I, p.84. ニーチェはこの本のドイツ語の題名をわざわざラテン語に訳している。


 プルタルコスとアリストテレスの三箇所が重要で、引用しなければならない。プルタルコス『ギリシア問題集』18. 「僭主を退けたメガラ人たちは短期間は健全な政治を行った。 m213 その後に民衆指導者たちが沢山の混ざりけのない自由を彼らに注いだ時に彼らは完全に堕落して、富裕な人々に対して他にも傍若無人な振る舞いをしたのだが、なかでも貧民たちは富裕な人々の家に入ってきて、歓待や豪勢な食事でのもてなし要求した。要求が叶わない場合はその家族全員に暴力をふるい侮辱した。ついに彼らは法令を制定して彼らが払った利子を貸し主から取り戻した。彼らはそれを利子返還法と呼んだ。」(訳注 14

 アリストテレス『政治学』V,4,3 「殆ど同じ様にしてメガラの民主制が終わった。というのは財産を没収できるように民衆指導者たちが富裕な人の多くを追放したのである。最後には追放者が多くなりすぎた。彼らは戻ってきて戦って民衆を撃ち破って寡頭政治を樹立した。」 V,2,6 「敗れた時にメガラ人の民主制は無秩序と無政府状態のせいで崩壊した。」(訳注 14a

 IV,12,10. 「というのは(役人は)市民全員が選ぶかあるいは一部の人々が選ぶかであり、全体から選ばれるかあるいは財産や生まれや能力や、メガラ人の間で一緒に帰ってきて民衆と一緒に戦った人々の中からのように、何か他のもので限定された一部の人々の中から選ばれるかである。」(訳注 15


訳注 14 プルタルコスは1〜2世紀の人、『英雄伝』の著者として有名。また、このギリシア語の原文の引用は Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. XI ページの引用文と殆ど同じ。おそらくヴェルカーからの孫引きだろう。古代ギリシアではワインを水割りで飲むのが普通だった。つまり「混ざりけのない自由」とは、過激な自由を水割りしていないワインに喩えたもの。

訳注 14a HK 版では ἀταξίαν の気息記号が欠落している。ムザリオン版が正しい。

訳注 15 このアリストテレスの三箇所も Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. XII ページにこの順番で引用されている。おそらくこれもヴェルカーからの孫引きだろう。『政治学』の巻・段落・節の表記はベッカー版だと順に、V,5,4. (1304b34) V,3,5. (1302b31) IV,15,15. (1300a15) となる。


 これらの箇所からテアゲネス追放後に久しからずして貴族と民衆との、厳密には富裕な人々と貧しい人々との、新しい紛争が生じたことが明らかになる。というのはテアゲネスが支配していた時に、平民の生まれであっても多くの人が富を得たであろうし、他方で実に多くの貴族が土地と財産を奪われたからである。その紛争でその民衆は少なくとも勝ったのは明白だが、その後に扇動者たちのせいで堕落し無軌道になって、「利子返還法」を制定し---それによって利子として計算していたものを債権者から債務者に返還するように定めた---家に押し入って歓待を要求した。最後に多くの貴族は財産を奪われて国から追放された。貴族たちは長く亡命の境遇にあったが、最後には集まって祖国に帰還し戦闘に加わって再び都市国家の支配権を獲得し維持したのは明らかだ。これが起きた時期は確定できないようだ。既に紀元前 510 年には貴族が以前の地位を回復した事だけは確かだ。というのは僭主のヒッピアス(訳注 16を国から追放する為に、ちょうどこの年から後の数年間は、ラケダイモン人(訳注 17が妨害されずにイストモス(訳注 18を何度も通過しているからである。 m214 この当時民衆が都市国家を完全に支配していたらこれは不可能だろう。貴族はその年からペルシア戦争(訳注 19の後の時代まで中断せずにずっと支配しつづけた。だが、それを確定する確かな証拠はない。紀元前 468 年には民衆が再び貴族を追放して民衆の支配を再建したと記録は伝えている。


訳注 16 紀元前 510 年にスパルタ(ラケダイモン)の軍隊がアテネに遠征して、アテネの僭主ヒッピアスを追放した。アリストテレス『アテナイ人の国制』 19 章参照。

訳注 17 ラケダイモンはスパルタの別名。

訳注 18 イストモスはアテネがあるギリシア本土とスパルタがあるペロポネソス半島を結ぶ地峡部。メガラはその地峡の東方の入り口にある。またニーチェが貴族政治の復活を紀元前 510 年とみなす根拠は以下を受け売りしているだけ。 Duncker, M., Die Geschichte der Griechen, II, Berlin 1857, p.70, n.8.

訳注 19 ペルシア戦争は大国ペルシアがギリシアを征服しようとした戦争で紀元前 500 年頃に始まり紀元前 479 年にギリシア連合軍の勝利で終わった。


2. 私が可能な限り輪郭を描こうと努めたこの時代に、テオグニスの生涯は属している。その生涯を上記の出来事の順序に当てはめれば、古代の著述家の以下のわずかな証言から、確定できる限界まで正確に定めることができる。だがスイダス(訳注 20や他の著作家のわずかな箇所とこの詩人本人の詩以外にはテオグニスの生涯がわかるものはない。詩人が生まれた年についてスイダスはこう述べている。「テオグニス 第 59 オリュムピア紀(訳注 21γεγονὼς 」もし γεγονὼς を「生まれた」と解釈するならこれは信じがたい。なぜならヒエロニムス(訳注 22の『年代記』には「第 59 オリュムピア紀 テオグニスは有名な詩人である」とあり、また『復活祭年代記』(訳注 23には「第 57 オリュムピア紀 詩人テオグニスが有名になった」とある。キュリッロス(訳注 24の『ユリアヌス駁論』I, p.13 には「テオグニスは第 58 オリュムピア紀に有名になった」とある。それ故にスイダスは書き誤ったのか、あるいは γεγονὼς という単語で「その時代にいた」か「有名になった」かを意図していた。(訳注25


訳注 20 スイダスは十世紀ごろに編纂されたギリシア語の百科事典の名称。ニーチェは常にスイダスと書いているが、現在ではスダが正しい表記だとされている。

訳注 21 オリュムピア紀とは四年毎に開催された古代オリンピックを基準にした年代表記方法。オリュムピア紀と西暦の対応は以下の通り。 第 57 紀は紀元前 552-549 年。第58紀は紀元前 548-545 年。第 59 紀は紀元前 544-541 年。

訳注 22 ヒエロニムスは四〜五世紀のキリスト教の教父。ラテン語訳のウルガタ訳聖書で有名。エウセビオスの『年代記』をギリシア語からラテン語に翻訳し、さらに新しい時代を書き加えた。

訳注 23 『復活祭年代記』( Chronicon Paschale )は七世紀に東ローマ帝国で書かれた。アダムの時代から七世紀までの出来事を記述している。

訳注 24 キュリッロスはアレキサンドリアの大司教で 431 年のエフェソス宗教会議でネストリウス派を異端にした。またローマ皇帝の背教者ユリアヌスを反駁する論文『ユリアヌス駁論』をユリアヌスが死んだずっと後に書いた。

訳注 25 この段落の四つの引用文はヴェルカーと同じ。ただしヒエロニムスの引用文の "clarus poeta" がヴェルカーでは "poeta clarus" となっている点だけ異なる。ニーチェがヴェルカーから孫引きする時に写し間違えたのだろう。また最後のスイダスの単語の解釈もヴェルカーと同じ。 Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. XVI ページ 13-19 行。


 それゆえ上述の数ヶ所から第 58 オリュムピア紀の頃にこの詩人が初めて有名になったことが確認できるのだが、この詩人が二十歳になる前に有名になったとは信じられないだろう。またその年齢よりもずっと歳をとってから有名になったという事もありえない。なぜならテオグニスは少なくとも紀元前 479 年には高齢でまだ生きていたからだ。このような理由からこの詩人は九十歳近くで死んだと確定できる。おそらく、これは信じがたいと思うだろう。なぜならミムネルモス(訳注 26の断片から推測できるように、イオニア人(訳注 27が七十歳を越えて生きることは稀だと思うからだ。また実際にアテネ人や近隣のメガラ人も八十歳を越えなかった。それはソロン(訳注 28の現存する詩Bergk, 20.が示している通りだ。それゆえ先ほど確定したこの年数を、ある程度いわば圧縮してもっと短い範囲内に限定しなければならない。 m215


訳注 26 ミムネルモスは紀元前七世紀のギリシアの詩人。ギリシア人の一種族であるイオニア人が小アジアに建設した都市国家コロポンの人。老いを嘆く詩を書いた。ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』 I,2,60-61. は以下の様に伝えている。「『ああ、病気も痛ましい悲しみもなく六十歳で死にたいものだ。』とミムネルモスが書いた時にソロンはミムネルモスを批判して言ったそうだ。『だが、もし今でも私を信じてくれるなら、それを取り除け、私が君より良い文句を思いついたからといって私を妬まず書き変えろ、リギュアスタデスよ、以下の様に歌え、八十歳で死にたいものだと』」

訳注 27 イオニア人は主に小アジア西岸部に居住するギリシア人。

訳注 28 ソロンは紀元前七~六世紀のアテネの政治家で詩人。貴族と平民が対立する時代に、中道に立った政治を行った。言及されている詩はすぐ上のミムネルモスの訳注を参照。


 それでこの詩人が紀元前 479 (訳注 29に本当にまだ生きていたかどうかを調べる必要がある。だがそれは 773-82 (訳注 30の詩から十分に推測できる。春が来たら百牛の生贄を捧げて慣わしどうりに音楽と劇で神々の為に祭りを行えるように、来寇するペルシア軍を都市国家から逸らすよう、詩人はポイボス(訳注 31にその詩で祈っている。事実、テオグニス本人はギリシア人に生じた不和(スタシス・ラオプトロス「人々を亡ぼす不和」)(訳注 32を心配している。ドゥンカーはこの詩句を他の年には帰せないと考えている(訳注 33本当にそうだろうか。


訳注 29 ペルシア戦争は紀元前 479 年のプラタイアイの戦いでギリシア連合軍がペルシア軍に勝利して終わった。プラタイアイはメガラから北に 25 キロほどの距離にある都市。

訳注 30 773-82 行   ポイボス神よ主よ、昔あなた自らがこの都市の頂きに多くの塔を巡らせた。

           ペロプスの子アルカトオスに恩恵を与えて。

           今度はメディア(ペルシア)人の横暴な軍勢をあなた自らこの都市から遠ざけ給え、

           春が来たら、あなたに人々が楽しそうに

           素晴らしい百牛の生贄を捧げる為に、

           竪琴と愛しい祝宴を楽しみながら、

           アポロン賛歌の合唱舞踏と祭壇の周りでの喜びの叫びによって。

           というのは、私自身は本当に不安です、ギリシア人たちの愚かさや

           人々を亡ぼす不和を目にしているので。だがポイボス神よ、あなたは

           我らのこの都市を慈悲深く守護し給え。         

訳注 31 ポイボスはアポロン神の別名。アポロン神は都市国家メガラの守護神。

訳注 32 スタシス・ラオプトロス「人々を亡ぼす不和」は、テオグニスの 781 行にある言葉。ペルシア戦争の時には、ギリシアの中にはペルシア側に味方する都市国家もあり、ギリシア側で出兵したが戦いに参加しようとせず日和見をする都市国家もあり、援軍を送る約束したが実際には出兵しなかった都市国家もあり、ギリシア連合軍全体の総司令官に誰がなるかでギリシアの有力な都市国家の間でもめたり、戦いの直前に逃亡しようとする司令官も出るなどギリシアの都市国家の間の不和はひどいものだった。なお、原文のギリシア語は対格だが読者の便の為に主格にした。また「」の言葉は訳者が補足した。

訳注 33 Duncker, M., Die Geschichte der Griechen, II, Berlin 1857, p.816. はテオグニスの 757-764 行をペルシア戦争に関連させている。ニーチェはそれを勘違いしているのだろうか。


 上の詩の他に 757-768 行もペルシア戦争に帰すべきだと思える。この詩で詩人は朗らかにおどけて酒宴に招待している。

    メディア人(訳注 34との戦いを心配せずに (訳注 35

    不安からは遠く隔たり上機嫌に時を過ごすのが

    楽しく、悪しき運命から遥に隔たり

    忌むべき老年と死の最期を近づけないのが。


訳注 34 メディア人はペルシア人のこと。

訳注 35 764-768 行のみ引用されている。但し 765 行は省略されている。757-768 の全訳は以下のようになる。

     天に住むゼウス神はこの都市国家を

     安全に右手で守護し給え。

     他の不死で至福な神々も守護し給え。

     さらにアポロン神は我らの舌と考えを正し給え。

     竪琴と笛で再び神聖な曲を奏でるが良い、

     我らはお神酒を神々に捧げて

     飲もう、互いに冗談を言いながら、

     メディア人との戦いを心配せずに

     これがずっとが良いでしょう。愉快な気持ちで

     不安からは遠く隔たり上機嫌に時を過ごすのが

     楽しく、悪しき運命から遥に隔たり

     忌むべき老年と死の最期を近づけないのが。

 ほとんど勝ち目のない戦争が迫っている時に、詩人は本当にこのような詩を書いたのだろうか。そのような時に酒宴をひらいたのだろうか。そのような時に哀願して、何を祈っているのか。なんと神々が老年を防いでくれるように祈っているのだ(訳注 36。九十歳の詩人がこんな事を祈るだろうか。それゆえこの詩を全く別の時期に、おそらく紀元前 546 年のハルパゴスの遠征の時に帰すべきだろう。まさしくその時に、引用箇所でテオグニスが言及しヘロドトスも非常に有名な文章(訳注 37で言及している、あの恐怖をギリシア人が味わった。まさしくその時に、スタシス・ラオプトロス(人々を亡ぼす不和)を帰すべき、都市国家の間の不和が生じた。その時には詩人は全くの若者で、美しい女や青春に喜びを見出し、できるだけ長く老年と死が訪れない事が何よりも重要だった。


訳注 36 ベルクのテキストでは 757-768 行は連続する一つの詩になっているので、この様な解釈が成立する。Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.59.

訳注 37 ヘロドトス『歴史』 I,162-177. によれば、ペルシアの将軍ハルパゴスは小アジアにあったギリシア人の都市国家を次々に攻略した。ヘロドトスは紀元前五世紀のギリシアの歴史家でペルシア戦争を題材にして『歴史』を書いた。


 このように先ほど確定した年代からさかのぼる事になるが、シュラクサイの僭主ゲロンがメガラ・ヒュブライアを征服した(訳注 38紀元前 484 年よりさかのぼりはしない。 m216 他方では、スイダスに「テオグニス、シケリア(訳注 39のメガラ出身、シュラクサイ人たちの攻城戦において命拾いした人々( τοὺς σωθέντας τῶν Συρακοσίων ἐν τῇ πολιορκίᾳ )に寄せてエレゲイア詩(訳注 40を書いた」とあるのだ。ミュラー Dor. II,509.(訳注 41は、τῶν Συρακοσίων 「シュラクサイ人たちの」を主語を示す属格とみなして、包囲攻撃されたメガラ・ヒュブライアに言及していると、この文を解釈している。単語の位置が例外的なのを容認することになるが、全く適切だと思う。なぜなら、ゲロンのシュラクサイ征服への言及だと解釈すると、スイダスのこの記述(訳注 42は正確でないからだ。ゲロンが武力に依らずに、その都市国家の支配者になった事実はよく知られている。民衆が自発的に明け渡した都市国家シュラクサイの降伏をゲロンは受け入れた。他方において、メガラ(訳注 43)は第 74 オリュムピア紀の二年目(ヘロドトス 7,156)に、すなわち紀元前 483,84 年に包囲された。それゆえにテオグニスは紀元前 484 年に生きていて、おそらくその翌年にもまだ生きていただろう。そういう訳でこの詩人はおそらく紀元前 543 年頃に有名になり、紀元前 563 年頃に生まれて、紀元前 483 年かその少し後に死んだと確定する。(訳注 44


訳注 38 シュラクサイは南イタリアのシシリー島にあったギリシア人の都市国家。ゲロンはゲラという都市国家の僭主だったが、シュラクサイの僭主にもなり、さらにメガラ・ヒュブライアなどのシシリー島の都市国家を征服した。

訳注 39 シケリアは南イタリアのシシリー島のこと。

訳注 40 エレゲイアは詩の韻律の一種。テオグニスの詩はこのエレゲイアで書かれている。

訳注 41 Müller, K. O., Die Dorier, Breslau 1824, II, p.509, n.35. おそらくニーチェはこの本は読まないで、ヴェルカーから孫引きしただけだろう。 Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. 前半の解説部分の XV ページ参照。

訳注 42 前出のスイダスの文章は「...攻城戦において命拾いしたシュラクサイ人たちに寄せてエレゲイア詩を書いた。」と解釈することもできる。その場合は都市国家シュラクサイが攻撃されたことになる。だが、ヘロドトス『歴史』 VII,155. の記述とくい違う。

訳注 43 正確に書けばメガラ・ヒュブライア。ヘロドトス『歴史』 VII,156. によれば、ゲロンの軍隊がメガラ・ヒュブライアを包囲してメガラ・ヒュブライアが降伏した時に、そこの貴族は処刑を免れたが、平民は奴隷として売却された。

訳注 44 この段落の内容は、Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. 前半の解説部分の XV ページとほぼ同じ。またムザリオン版 p.216 のニーチェの文の一部 "non vi potitum esse urbe constat, sed a populo sponte traditam in fidem accepit." はヴェルカーの文の一部 "non vi potitus est urbe, sed a populo sponte traditam in fidem accepit." とほぼ同じ。ニーチェはヴェルカーを書き写している。


 テオグニスは国外追放された貴族の一人だった。なぜならテオグニスは国外追放の以前に民衆や民衆の法律と激しく戦ったからだ。青年の頃すでに亡命してる時期に、貧困や、悪口を言う人々の苦々しい誹謗に苦しんだと、テオグニス本人が述べている。

    心を打ち砕く貧困も、       (訳注 45

    私を誹謗する敵どもも私は気にしない。

    だが私から去る愛しい青春を嘆く、

    近づいてくる痛ましい老年を私は悲しむ。


訳注 45 テオグニス 1129-1132 行。ニーチェの引用では μὲν だが、ヴェルカーのテオグニスのテキストだと μὴν となっている。ベルクなどの他の版のテオグニスのテキストはこの双方とは全く違う単語が載っている。 μὲν はニーチェの写し誤りだろうがそれでも意味は通じるのでそのまま訳した。Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826, p.35.


 しかしこの詩で述べられているように、苦々しい言葉を浴びせられても、テオグニスは他の時期ほど悩まなかった事を多くの詩が示しているようだ。それゆえ、この詩は上述の争いが始まった頃に創ったのだろう。テオグニスはその争いに敗れて、私有財産を手放して亡命した。実際この詩は詩人が三十歳の紀元前 433 (訳注 46より前に書かれてない事だけは確実だ(「私から去る愛しい青春」という文句の故に)。それゆえに紀元前 430 (訳注 46から紀元前 410 (訳注 46の間にテオグニスがシケリア島、エウボイア島、ラケダイモン(訳注 47を流浪してから祖国に帰国したと考えざるを得ない。(訳注 48) m217


訳注 46 それぞれ紀元前 533 年、紀元前 530 年、紀元前 510 年の誤りだろう。そうでないと少し前の内容と合わない。

訳注 47 シケリアは南イタリアのシシリー島。エウボイアはギリシア本土の東にある大きくて細長い島。ラケダイモンはスパルタの別名。

訳注 48 亡命中の滞在地やその順番に関してニーチェは以下に従っている。Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. XIII ページの下から2行目。Duncker, M., Die Geschichte der Griechen, II, Berlin 1857, p.67.


 テオグニスがメガラ人の都市国家や市民の騒乱に関して示唆している事は、プルタルコスやアリストテレスのわずかな証言と、どれぐらい整合しているか次に示そう。

 となり合わせに並べた語句をよく見れば、容易に分かる。

V.4,3 「というのは財産を没収できるように民衆指導者たちが---(訳注 49

「個人的な利益と権力の為に---46(訳注 51

「公の害悪をともなってやって来る利益」50

Q.18 「貧民たちは---その家族全員に暴力をふるい侮辱した---ついに彼らは法令を制定して---利子返還法」(訳注 50

「奴らは財産を暴力で奪い取る、秩序は既に失せた。

公の配分はもはや公平ではない。」677-678 (訳注 52

Q.18 「健全だった---民衆指導者たちが沢山の混ざりけのない自由を彼らに注いだ時に彼らは完全に堕落して---(訳注 50

「この市民たちはまだ分別があるが、扇動者たちは

ひどい惨事に落ち入ろうとしている。」41-42

上記に関して 44,45 (訳注 53を参照せよ。


訳注 49 アリストテレスはベッカー版だと『政治学』V,5,4. (1304b34) になる。前出。訳注 6 参照。ここの引用文では希求法の ἕχοιεν だが、前出箇所では接続法の ἕχωσι となっている。ヴェルカーの引用文も接続法の ἕχωσι なので、ここの希求法は写し誤りだろう。

訳注 50 プルタルコス『ギリシア問題集』18. 前出の箇所を参照。

訳注 51 ベルク版テオグニスのテキストからの引用。 Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.36. ニーチェが用いたテオグニスのテキストに関しては、Nietzsche, F., Teognide di Megara, a cura di Antimo Negri, Roma 1985, pp.3-4. 及び Nietzsche, F., Sämtliche Briefe, Kritische Studienausgabe in 8 Bänden, herausgegeben von Colli, G., und Montinari, M., München 1986, I, p.277. を参照。但し、これら以外のテキストも使用した可能性は強い。

訳注 52 これもベルク版テオグニスのテキストからの引用。またニーチェは δ᾽ を書き忘れている。 Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.57.

訳注 53 44,45 行はこの論文の III,15 で引用されている。訳注 337 参照。


 これらの詩句の意味は不明瞭だ。だが、とても過酷な支配の下で、自由な発言と言論が恐怖で弾圧されていた時期であり、暗示を用いた詩にとどめざるをえなかった事を忘れてはならない。そしてまた、危機に瀕した船の比喩で都市国家の絶望的状況を描写している詩を、この詩人本人が以下の文句で終えている。

    この謎を貴族の為に仄めかしておこう。    (訳注 54

    だが、賎民でも、賢いなら理解するだろう。


訳注 54 テオグニス 681-682 行。ベルク版テオグニスのテキストからの引用。 Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.57.


3.(訳注 55) さて詩人の時代の状況を辿って、年数を計算して確定しようと努め、テオグニスが詩の中で触れたメガラの都市国家の状態を手短に述べた。それで、ヴェルカーは省略した厄介な仕事でどれほど苦労しようとも、詩が言及している一つ一つの事件をもっと正確に互いに結びつけて一定の順序に並べるべきである。 m218


訳注 55 ムザリオン版ではこの . という数字が欠落している。


 さて、生まれながらの貴族で青年になったテオグニスが、歓楽にふけったのは明白だ。というのは、この時代にメガラの貴族は、以前の健全な習慣から堕落して、いくぶん贅沢で柔弱になったからである。この青年の精神には陽気さと軽さが伺える。

    1122 行 青春と富で心を暖めながら---(訳注 56

    1153   私が豊に悪しき心配と無縁に無事に暮らせますように---(訳注 56a

    567    青春を楽しんで私は遊ぶ---(訳注 57

 だが今や動乱が都市国家を襲い、テオグニスは心配せずに楽しく暮らすことがもうできなくなった。というのは、テオグニスが既に少年の頃から教わってきた訓戒を、賎民が嘲笑するだけでなく、貴族もなおざりにするのを、テオグニスは毎日のように目撃したからである。とくに、貴族の血筋が成り上がり者との婚姻で汚れるのを見て、テオグニスは非常に憤慨してひどく嘆いてあらゆる手段で都市国家を襲う害悪と戦い、堕落した貴族を叱咤し、賎民を激しく嫌って嘲笑した。実際、自分の生活を守るために、賎民と親しくなって不本意ながら賎民の好意にすがらねばならなかった事よりも、テオグニスの誇りと怒りに影響した事はなかった。これは、他の人々の財産を民衆が奪った時に、テオグニスが自分の財産を保つ為に、しばらくのあいだ賎民の好意を得ようと努めたにすぎない。テオグニスが以下で述べているように、最初のうちはそれに成功した事が分かる。

    誠実さで財産を失い、不誠実で救った。(訳注 58

    この両方から得た知識は悲しすぎる。


訳注 56 1122 行は 1119-1122 の詩の最終行。この論文の II,10 の訳注 136 に全訳あり。

訳注 56a 後ろに続く「、何の災いも被らずに。」が省略されている。

訳注 57 567-570 はこの論文の II,11 の訳注 183 の引用参照。

訳注 58 テオグニス 831-832 行。 γνώμῃ は γνώμη の誤り。ベルク版テオグニスのテキストからの引用。 Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.62.  


 だが結局は失敗した。というのは、敵たちがテオグニスの財産を奪い、テオグニスの暮らしは深刻な危機に陥ったからだ。テオグニスは民衆びいきを装ったが、本当は貴族びいきな事を敵に隠しきれなかったのだ。

    ああ私は惨めだ。そして敵どもの嘲笑の的だ。(訳注 59) m219


訳注 59 テオグニス 1107 行。ベルク版テオグニスのテキストからの引用。 Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.62.


 こうして、ひどい貧乏に苦しんで、敵に嘲笑されて、友人のお荷物になって、というより、ひどく嘆いているのだが、友人に裏切られて、テオグニスは亡命を決心した。テオグニスは、妻の---もし私の見方が正しければ---アルギュリス(訳注 60を連れていくかどうか最初はまよった。父親のような気持ちで愛している若者キュルノス(訳注 61には旅と亡命の苦難を一緒に耐える事を望むかどうかテオグニスは尋ねた。だがこの二人がテオグニスに同行したかどうかは十分に明らかではない。紀元前 559 年のヘラクレイア・ポンティカ(訳注 62)建設の際に、ボイオティア人がメガラの貴族をとても良く援助した事を思い出して、ボイオティアのレバデイア(訳注 63という都市国家の貴族にとても親切に歓迎されるだろうとテオグニスは期待した。テオグニスが本当にそこに行ったかどうか断言できない。だが、テオグニス自身が述べているのだが、シケリア島(訳注 64に長く滞在した事は確かだ。それは既述のスイダス(訳注 65)の証言とプラトン(訳注 66『法律』 I, p.630 が証明する。プラトンはテオグニスを「シケリアのメガラの市民」と呼んでいる。テオグニスがメガラ・ヒュブライア(訳注 67で生まれたと唱える古代の報告者たちの誤りは、ここから生じた。だが、アルキロコスがパロス島とタソス島の人(訳注 68、プロタゴラスと小ヘカタイオスがテオスとアブデラの人(訳注 69、テルパンドロスがボイオティアとレスボス島の人(訳注 70、ミムネルモスがコロポンとスミュルナの人(訳注 71と呼ばれたように、文芸や学問の名声によって有名な人は植民都市と本国の両方の市民であり、またそう呼ばれた事が多くの事例から分かる。


訳注 60 アルギュリスはテオグニス 1212 行で言及されている。この論文の II,12 にある引用と訳注 242 参照。一般には、ただの奴隷女とみなされている。但し、1543 年にテオグニスのテキストを出版したウィネトゥスはアルギュリスをテオグニスの妻とみなした。 Schneidewin, F. G., Delectus Poesis Graecorum elegicae, iambicae, melicae, I, Gottingae 1838, p.117. "Sub Argyri --- quam Vinetus pro uxore poetae habebat..." 及び Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826, p.135. "...Vinetus, cui...Argyris autem Theognidis uxor."

訳注 61 キュルノスはテオグニスと親密な貴族の若者。

訳注 62 ヘラクレイア・ポンティカは黒海南岸にある植民都市。紀元前六世紀にメガラとボイオティアが共同で建設した。

訳注 63 ボイオティアはメガラの近隣地方で、レバデイアはそこの都市国家だがトロポニオスの神託で有名だった。トロポニオスの神域にはレーテーという名前の泉があり、神託を伺う人はその水を飲まねばならなかった。それゆえ後出(訳注 242 243)のテオグニス 1215-16 行の「我々にも立派な国がある、それはレーテーの平野に横たわっている。」という文句はレバデイアを指しているという解釈がある。ニーチェはそれに従ったのだろう。以下を参照。パウサニアス『ギリシア案内記』IX,39,1-IX,40,2 特に IX,39,8. また、Carrière, J., Théognis, nouvelle édition, Paris 1975, p.195.

訳注 64 シケリア島は南イタリアのシシリー島のこと。ギリシア人の植民都市が多数あった。

訳注 65 スイダスは十世紀に東ローマ帝国で編纂された百科事典。ニーチェは常にスイダスと書いているが、今日ではスダが正しい表記とされている。

訳注 66 プラトンは紀元前五〜四世紀の有名な哲学者。ソクラテスの弟子。アテネの人。

訳注 67 メガラ・ヒュブライアは紀元前八世紀にメガラがシシリー島の東岸に建設した植民都市。

訳注 68 アルキロコスは紀元前七世紀の詩人、パロス島の人。パロス島の住民は紀元前七世紀にタソス島に植民した。

訳注 69 プロタゴラスは紀元前五世紀のソフィストで、人間は万物の尺度であると唱えた。小ヘカタイオスは紀元前三世紀の著述家。両者ともアブデラの人。小アジア西岸の都市国家テオスが、紀元前六世紀に北ギリシアに植民都市アブデラを建設した。

訳注 70 テルパンドロスは紀元前七世紀の音楽家で詩人。小アジア西岸に近いレスボス島の都市国家アンティッサの人。ボイオティア地方のアルネという都市国家の人との伝承もあり、テルパンドロスの先祖がアルネからレスボス島に植民したのかも知れないとベルクは推測している。 Bergk, T., Griechische Literaturgeschichte, Berlin 1883, II, p.208, n.21.

訳注 71 ミムネルモスは紀元前七世紀の詩人、スミュルナの人。小アジアの都市国家スミュルナが紀元前六世紀に近くの都市国家コロポンから移民を受け入れたところ、移民に都市国家を乗っ取られてしまった。ヘロドトス『歴史』 I,150. 


 シケリア島では質素な亡命生活に耐えたことを、テオグニス本人が認めている。そして、自分の境遇を誰かが尋ねたら、こう知らせるように請うている。

    いい暮らし向きの中では悪く、悪い暮らし向きの中ではかなり良い。(訳注 72


訳注 72 テオグニス 520 行。亡命先のシケリア島のメガラ・ヒュブライア滞在中にテオグニスはこの詩を書いたとドゥンカーは考えている。ニーチェはそれに従っている。 Duncker, M., Die Geschichte der Griechen, II, Berlin 1857, pp.66-67.


 亡命の苦しみはかなり軽くなったようだ。なぜなら亡命貴族たちは互いに行き来して、祖国で再起し以前の地位を回復するという共通の話題を常に議論したからだ。テオグニスはシケリア島からエウボイア島(訳注 73まで船で旅したのだろう。その島の貴族は、権力と贅沢を享受していて、亡命者を立派に贅沢にもてなした。テオグニスは亡命の最後の時期を、いわば貴族の本拠地であるスパルタ(訳注 74で過ごした。亡命者たちは、祖国の卑しい市民と対決する為の援軍を、特にこのスパルタから得られるだろうと期待した。 m220 おそらくこの期待は裏切られなかった。なぜなら、この亡命者たちが他から援助を受けずに自力だけで祖国に侵入し、平民を敗北させて、再び都市国家の支配者になったとは信じ難いからである。


訳注 73 エウボイア島はギリシア本土のすぐ東にある大きくて細長い島。

訳注 74 スパルタはギリシア本土南部の都市国家。支配階級(貴族)と被支配階級の差別が非常に激しい政治制度だった。スパルタ式教育の語源。


 亡命前と亡命中のテオグニスの人生について探り出せるのは、これがほとんど全てだろう。この詩人が晩年に関して述べている事は、残念ながら少ないし重大な内容でもない。だがその検討がまだ残っている。賎民に対するテオグニスの憤激と嫌悪そのものは弱くなったようだ。それと同じように、以前よりも穏健な立場でテオグニスは政治に携わった。(訳注 75

 ケリントス(訳注 76とメガラ・ヒュブライア(訳注 77という二つの都市国家の、とても親切に歓迎してくれた貴族たちが没落したひどい不幸をテオグニスは非常に悲しんだが、それについては既に述べた。(訳注 77aその他では、愛しい若者を励ました訓戒から、テオグニスは老人になるにつれて徐々に遠ざかった。その確かな証拠を見ることができる。死については何もよく分からない事は既に述べた。テオグニスの死は、ゲロンがメガラを征服したのを聞いてひどく嘆き悲しんだ(訳注 78、紀元前 484 年のおそらく少し後だろう。


訳注 75 テオグニスが穏健になったという解釈では、ニーチェはドンカーに従っている。Duncker, M., Die Geschichte der Griechen, II, Berlin 1857, p.71.

訳注 76 ケリントスはエウボイア島の都市国家。コリントスと名前が似ているが、場所も規模も全く異なる都市国家。

訳注 77 メガラ・ヒュブライアは紀元前八世紀にメガラがシシリー島(シケリア島)の東岸に建設した植民都市で、テオグニスが亡命中に滞在した都市国家。

訳注 77a 「既に述べた」とあるが、実際にはケリントスの貴族の没落を悲しむ詩はここの前では言及されてない。後ろの I,4 II,12 で少しだけ言及される。ニーチェが思い違いをしたのだろう。訳注 253 参照。

訳注 78 ニーチェがスイダスのギリシア語の文をミュラーに従って解釈している箇所 I,2 参照。正確に記せばメガラではなくメガラ・ヒュブライア。


4. さてテオグニスの生涯の輪郭を簡潔に描いたのだから、ヴェルカーの説に進む必要がある。ヴェルカーは他の方法で一つ一つの出来事を順番に並べて、出来事を新しい順序で結びつけている。というのは、ヴェルカーが自分の本の中で詳しく述べているように、(訳注 79テオグニスは亡命した貴族の一人で、民衆が戦いで敗北して貴族の支配が復活し、その後に再び民衆階級が支配権を握った、その当時に詩を書いたとヴェルカーは述べているからである。また、その支配は第 89 オリュムピア期の第一年目(訳注 80まで続いたという。これはかなり疑わしいが、もしこの詩人が他の雑多な財産と一緒に返還されて世襲財産を取り戻したのなら、明らかにその後じきに、もう一度動乱が起こった時に、また奪われたのだとヴェルカーは述べている。そのために土地所有者たちが民衆におもねるのを見て、また以前は政治に関われなかった人々が政治的地位を得て、勝った党派には異なる階級との結婚が自然に認められて、成り上がりの人々との結婚で高貴な血筋さえも汚れるのを見て、テオグニスは嫌悪して詩を書いたという。 m221


訳注 79 ここから始まってこの段落の最後まで続くとても長い文章は、全てヴェルカーの文章を引用しているだけ。但し、間接話法に直してある。 Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. XII ページの最下行から XIII ページの9行目までを参照せよ。また、この長い引用文の最後の ”indignationem … versum fecisse” の部分は Juvenalis, Satura I,79. "facit indignatio versum"「嫌悪が詩を書く」に由来すると Negri Nietzsche, F., Teognide di Megara, a cura di Antimo Negri, Roma 1985, p.124, n.12. で指摘している。それが正しいなら、ヴェルカーがユウェナリスの文を参考にしたことになる。

訳注 80 紀元前 424/423 年 


 さて、ヴェルカーは一体何をしたのだろうか。奇妙なやり方で出来事を引き裂いたのではないだろうか。

 実に多くの問題が発生するが、最大の問題を示そう。紀元前 510 年には支配権は貴族のものだった。この年以降しだいに上述の、テオグニスがとても悲しんだ、あらゆる害悪が都市国家に入り込んできたとヴェルカーは考える。だがこの詩人はこの年より前に何か詩を書いただろうか。それとも何も書かなかったのだろうか。もちろん書いたのだ。テオグニスは亡命中にエレゲイア詩をキュルノスに宛てて書いている。1197 行。そして既に亡命以前にも、53-60 行、(訳注 81

    キュルノスよ、都市はまだあの都市のままだが、人間は違う。

    奴らは以前は掟も法も知らずに、

    胸のまわりに着古した山羊皮をまとっていた、

    鹿のようにこの都市の外に住んでいた。

    ポリュパオスの子よ、今は奴らが貴族だ、昔の貴族は

    今は賎民だ。それを見て誰が耐えられるだろうか。


訳注 81 1197 行は訳注 313 参照。 53-60 行とあるが 59-60 行は引用されていない。またヴェルカーはこの詩を二つに分けて離れたページに配置しているが、ベルクでは連続しているので、この引用はベルクのテキストからだろう。Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826, pp.1-2, p.48.  Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, pp.36-37.  


 ヴェルカーが述べている二度目の政治紛争に、この詩を帰すことはできない。なぜなら、この詩では、賎民は紛争の前には皮を身にまとって、鹿のように都市を避けて、郊外で暮らしていたと言われているからである。この内容はヴェルカーの歴史の説明とは整合しない。というのは、既に都市国家の最初の革命で、平民は都市に侵入して長いあいだ贅沢と無法な振る舞いにふけっていたはずだからだ。この詩は明らかに、テオグニスの亡命以前の都市国家の政治的状況を述べている。すなわち、その時に以前のデイロス(賎民)(訳注 82は既にアガトス(貴族)(訳注 83の地位を獲得していた。その時にテオグニスは財産を無理やり奪い取られた。346 行「私の財産を力で奪って所有している。犬みたいに惨めな私は急流を通った。雨期の増水した川で全てを失ってしまいながらも。」その時にテオグニスはひどい貧困に悩みながら、ペニエー(貧困)(訳注 83aをとても激しく呪うエレゲイア詩を書いた。


訳注 82 ムザリオン版では πρὼ 「朝の」だが、HK 版では πρὶν 「以前の」とある。後者でないと意味が通じない。また、カタカナの単語は、ニーチェの原文のギリシア語では複数形だが、読者のために単数形で表記した。 

訳注 83 同じく読者のために単数形で表記した。

訳注 83a このギリシア語はニーチェの原文では対格だが、読者の便のために主格で表記した。


 上で指摘したのは何か。それは、ヴェルカーの説では確かに亡命終了後に詩人が経験した、それと同じ事を、まるで万事が反復したかのように、既に亡命以前に経験したという事である。 m222

 だが、これほど複雑に解釈せねばならない必要があるのだろうか。このような事件の反復を、詩人が示している詩句が、一体あるのだろうか。そのような詩句は何もないし、このような必要もない。

 だが、詩人の生涯全体を簡単にあるいは詳細に述べたヴェルカー以外の人々の意見や説明も、私が詩人の生涯を描写したこの説明と、完全には一致しない事を私は否定しない。そのほとんど皆が独自の方法に従っているのだが、鋭く歴史的事実に即しているというよりむしろ、巧みに説明している。例えば、K. O. ミュラーはこう述べている。「強制的な土地分配の際にテオグニスは、ちょうど船旅に出て不在だったが、先祖伝来の財産を奪い取られた。」(訳注 84だが、このたった一つの名詞から上の推測が由来する、ナウティリエー(船旅)(1202 行)は、正しく亡命である。しかし、ミュラーの言葉からはそれは窺えない。


訳注 84 Müller, K. O., Geschichte der griechischen Literatur bis auf das Zeitalter Alexanders, Breslau 1841, p.213.


 さて、どんな事について論じたのか、まとめて簡単に復習するとしよう。

    紀元前 563 年? メガラのテオグニス生まれる。

     543 ?  詩人として初めて有名になった。

     533    民衆との争いが始まった。

     530-10  財産を奪われて貧困に苦しんで亡命した。シケリア島、エウボイア島、スパルタに

          滞在して、他の亡命者と共に戻って、賎民を戦いで破って以前の地位を回復した。

     506    賎民に追放されたケリントスの貴族のことをエレゲイア詩で嘆いた。(訳注 84a)

     484    ゲロンがメガラ・ヒュブライアを占領した時にエレゲイア詩を書いた。

          その後久しからずして死んだ。 m223


訳注 84a この 506 年という年代は何の説明もなく唐突に出てくる。またこの論文の I,3 には「ケリントスとメガラ・ヒュブライアという二つの都市国家の、とても親切に歓迎してくれた貴族たちが没落したひどい不幸をテオグニスは非常に悲しんだが、それについては既に述べた。」という言葉があるのに実際には、その前の箇所でケリントスに関してはそのような記述がない。これらの事実から推測すると、ケリントス貴族の没落を嘆いた詩に言及して年代を決定する論述を、ニーチェはうっかり書き忘れたのに既に論じたと思い込んでいたようだ。

 紀元前 506 年に、アテネ軍はエウボイア島のカルキスを占領して貴族たちの土地を四千人に分配した(ヘロドトス『歴史』 V, 77)。そのときにケリントスも同じ扱いを受けたと推測し、テオグニスがそれを詩で嘆いたという解釈がある(Carrière, J., Théognis, nouvelle édition, Paris 1975, pp.180-181)。ニーチェはそれに従ったのだろう。


                       II.

               テオグニスの詩について


5. 古代の人々、特にクセノポンとイソクラテス(訳注 85のテオグニスの詩についての意見に従うべきか、或いは今の人々の全く正反対の意見に従うべきか、長いあいだ私は大いに迷った。確かに、テオグニスの時代に近い古代の人々の方が、今の人々よりも、おそらく正確に判断しただろうと思う。今の人々は、本来の姿の全部の詩ではなく、哀れな寄せ集めの詩集から推測せざるを得ないので、正しい判断ができなかった。他方で、既に述べたように、テオグニスの時代やテオグニスの祖国の状態だけでなく、テオグニスの生涯についても、古代の著述家たちの記述は不完全なうえ僅かしかない。


訳注 85 クセノポンは紀元前五〜四世紀のアテネの軍人で哲学者、ソクラテスの弟子。イソクラテスは紀元前五〜四世紀のアテネの弁論家で弁論術の学校を創立した。


 ここ最近テオグニス研究にかなり長いあいだ従事し、テオグニス自身の残存している詩を何度も熟読している間に、古代の人々の意見も今の人々の意見も、全面的に支持すべきではないと私は確信した。

 古代の色々な時代に当時の人々がテオグニスの詩の種類について述べた多くの意見のうちの、ごくわずかしか我々には残っていない。イソクラテスの時代には、テオグニスは極めて厳格な道徳の教師とみなされた。そしてテオグニスの書物を「人間に関する著作」または「徳と悪徳について」とみなした(クセノポン、於、ストバイオス、Serm. 88, p.499)(欄外に、プラトン 、cf.『法律』 I p.630. イソクラテス『ニコクレスに与う』 c. 12)。テオグニスの本は既に少年の教育に使われるようになっていたが、おそらく原形のままではなく格言の抜粋の形で使用され、生徒はそれを暗記するように命じられた(欄外に、イソクラテス『ニコクレスに与う』冒頭部、 アイスキネス『クテシポン弾劾演説』 p. 525 Reiske)。(訳注 86おそらくこの本のそのような運命に、クセノポン以後の古代の人々の全ての意見の原因を求めるべきだろう。というのは、まだ年少の生徒たちがテオグニスを苦労して暗記するように強制され、ほとんど全ての教育的要素をテオグニスから学ぶように命じられた時に、テオグニスの詩句が普通に毎日つかわれるようになり、会話で頻繁に引用されるようになった。 m224 テオグニスの格言をあちこちで色々と引用している古代人の書物から、それが分かる。---テオグニスが本当は詩人であり、教師ではなかった事を、古代の人々はじきに忘れてしまった。そこからプルタルコス(訳注 87の『若者は詩をどう学ぶべきか』 c.2 p.16 の言葉を正しく理解できる。テオグニスの格言集(グノーモロギア)(訳注 88は飾り気のない文体を避ける為に韻律とリズムを乗り物(オケーマ)の代わりに利用しているロゴス(訳注 88(文章)だと、プルタルコスは述べている。そして、この抜粋された格言集以外は少年には何の益もないとみなされた時に、本来の形のテオグニス詩集は徐々に完全に消滅した。子供の教科書を、大人が再び読もうと思うだろうか。ディオン I, p.74 (訳注 89はそれを平明な言葉で述べている。「我々のような大人が彼ら(テオグニスとポキュリデス)(訳注 90からどのような益を得る事ができるのか」と。


訳注 86 この段落でこれ迄に示された古代の書物の出典箇所は、全てヴェルカーが殆ど同じ順番で挙げている。 Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. LXXI-LXXII ページ参照。 アイスキネスは紀元前四世紀のアテネの弁論家で親マケドニア派としてデモステネスと対立した。ヴェルカーが引用しているアイスキネスの原文を和訳すると以下のようになる。「というのは、大人になった時に格言を使う為に、その為に我々は子供の時に詩人たちの格言を暗記するのだと私は思う。」

訳注 87 プルタルコスは1〜2世紀の人『英雄伝』の著者として有名。ニーチェは、ベルンハーディが引用しているプルタルコスのギリシア語原文を要約したのだろう。 Bernhardy, G., Grundriss der griechischen Litteratur, 2. Bearbeitung, 2. Theil, Halle 1856, p.460.

訳注 88 読者の便の為に単数主格形の発音にした。

訳注 89 ディオンは 50 年ごろ生まれた歴史家でソフィスト。ディオン・クリュソストモスと呼ばれる。ディオンの『君主政治について』第二番からのこの引用文はヴェルカーにあるが、 "I, p.74" を明示していない。Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826, LXXVI ページ参照。この引用文はベルンハーディにもあり、"I, p.74" も明示されてるので、ニーチェはベルンハーディから孫引きしたのだろう。ベルンハーディの同書同箇所参照。

訳注 90 ポキュリデスは紀元前六世紀のギリシアの格言詩人。また、ディオンからのギリシア語引用文はニーチェの解釈に即して和訳した。


 我々が手にしている詩集が、ばらばらに切断されパロディーと混ざって他の詩人たちの詩が混入した状態で残っているというような、全く悲しむべき状態になった、その原因は、上述の様な詩集の運命に求めるべきである。正しくその時に、浅薄な教養しかないえせ学者が他の詩人たちや上述の格言抜粋集からテオグニスの詩を寄せ集めて一つにまとめたのだろう。現存しているのと同じ形式で編集されたその書物を、その後で、ストバイオス(訳注 91がかなり頻繁に使用したのだろう。以上をベルク(訳注 92)は注意深く証明したが、キュリッロス(433 年)(訳注 93以前には、そうならなかったという事を私はさらに付け加えたい。なぜなら、テオグニスが「正しい人の乳母であり、そのうえ少年に助言する教師だと信じられている、音楽をともなわない洗練された格言集」を書いたことをキュリッロスが認めているからである。キュリッロスが子供の教育にちょうど相応しいとみなしたテオグニスが、今では恋愛詩や飲酒の詩やそれどころか猥褻な断片と混ざった、未加工の混乱した寄せ集めから成り立っている状態で、我々が所持しているテオグニスとどれほど違っているかが、この言葉から明らかである。


訳注 91 ストバイオスは五世紀の抜粋集の編集者。

訳注 92 テオグニスの 1221-1226 行はストバイオスには載っているが他の写本には載っていない。それで、ストバイオスはえせ学者の書物よりも、もっとテオグニスの原型に近い書物を読んだのだとヴェルカーは唱えた。ベルクはそれに反論した。Hudson-Williams, T., The Elegies of Theognis, New York 1979 (Reprint of London 1910), p.99. 及び Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. CX ページ。及び Bernhardy, G., Grundriss der griechischen Litteratur, 2. Bearbeitung, 2. Theil, Halle 1856, p.461.

訳注 93 キュリッロスはアレキサンドリアの大司教で、431 年のエフェソス宗教会議でネストリウス派を異端にした。 また、ずっと以前に死んだローマ皇帝の背教者ユリアヌスを反駁する論文を 433 年頃に書いた。この引用文は、その『ユリアヌス駁論』 VII, p.225 Spanheim. から。 だが、おそらくニーチェは Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826, LXXIII ページから孫引きしたのだろう。 また、ヴェルカーや HK 版では κολίοις だがムザリオン版では κυλίοις になっている。上ではムザリオン版のテキストをそのまま訳して「正しい人の乳母であり」としたが、ヴェルカーや HK 版のテキストだと「少女の乳母であり」となる。


 それゆえ、何故テオグニスについて古代の人々の意見から遠ざかるべきだと考えるのか、多くの言葉を費やす必要はないだろう。テオグニスが詩を書いた時代背景やテオグニスの生涯を、私が知る限り、誰も詳しく調べようとしなかった。また、誰もテオグニスの詩を楽しむ為に編纂しなかった。大抵の者はテオグニスの全体から道徳的格言を分離して暗記するためにテオグニスを編纂した。 m225 つまり誰も、手を加えてない元のままの完全な詩を後世のために残しておいてくれなかった。ホラティウス(訳注 94がそうならないように祈っている事が、現実にテオグニスに起きたのである。『風刺詩』 I, 10 「それともあなたは愚かにもあなたの詩が安っぽい楽しみの為に書き写されるのを望むでしょうか。私は望まない。---


訳注 94 ホラティウスは紀元前一世紀のローマの有名な詩人。ここの引用文はホラティウスのテキストの 74-76 行では malis 「むしろ~を望む」だが、ムザリオン版も HK 版も velis 「~を望む」となっている。malis mage velis の合成語なので混同しやすい。ニーチェが間違えたのだろう。 Heindorf, L. F., Q. Horatius Flaccus, Satiren, 3. Auflage, Leipzig 1859, p.231. を参照せよ。


6. 我々の時代に、古代の事件の記録を対応させて、残存しているテオグニスの詩を正しく理解する以前は、学者たちはテオグニスについて誤った判断をせざるを得なかった。だが羞恥心と古代のとても高い評価のせいで、ギリシア人のなかでとても有名な詩人をけなすのを控えなかったならば、残存のテオグニスの詩についてもっと誤った判断をしただろう。皆の中でゲーテ(訳注 95唯一人が自分が思ったことを正直かつ率直に以下の言葉で述べている。Goethe, ges. Werke, Band V, 549)「若い頃にテオグニスで何度も苦労して、教育的性格の厳格な道徳家としてのテオグニスから益を得ようと努めたが、常に徒労であって、その為にテオグニスを何度も投げ出してしまった事を私は良く覚えている。テオグニスは我々にはギリシアの悲しげな憂鬱症者に思えた。誠実で立派な意志に対して神々が何らかの考慮をする事を、正しくておそらく思慮のある人が強く否定するぐらい、良い人がひどい苦境にいて卑しい人が全くの順境にいる程、都市や国家が本当に堕落し得ただろうか。我々はこの不愉快な世界観を強情な性格のせいにして、もっと陽気で朗らかなギリシア人たちの為にいやいやながら骨を折ったのだった。」

 だが優れた歴史家たちにメガラの政治的状況とこの詩人の体験を教わって、ゲーテは意見を改めて以下のように述べている。「だが今や優れた古代研究者たちや最新の世界史(訳注 96から学んで、我々はテオグニスのいた状況を理解し、この優れた人をもっと良く知りもっと良く評価できる。 m226 テオグニスの祖国メガラは昔から富裕な伝統的貴族が支配していたが、テオグニスの時代に独裁者の支配に陥り、それから民衆が有力になって混乱の極みに達した。土地所有者や教養のある人や家系的また根本的に因習的な人は、公の場でひどい屈辱に苦しみ、個人的な家庭での楽しみまで迫害され妨げられ、困惑し辱められ略奪され、根絶やしにされるか国外追放された。そして自らが属するこの階級と共に、テオグニスはありとあらゆる不正を耐え忍んだ。一人の亡命者がこのエレゲイア詩(訳注 97を創り書いた事がわかったので、今やテオグニスの不可解な言葉を我々は完全に理解する事ができる。偉大な精神、優れた才能、その時代に非常に重要な都市の一つの立派な市民が同志と共に、混乱の極みの時代に対立する党派によって全ての特権と権利を奪われて貧困に追いやられたという事を常に意識しなければ、まるでダンテ(訳注 98の地獄のような詩を我々は信じることも理解することもできないと、このような場合に我々は告白するだけである。」(訳注 99


訳注 95 ゲーテは 1819 世紀のドイツの文豪。またムザリオン版では、ゲーテからのドイツ語引用文はゲーテ全集の原文と所々で相違がある。HK 版はゲーテ全集の原文に合わせて訂正してあるが、訳者はあくまでもムザリオン版に従った。ニーチェはドイツ語の引用文ですら不正確なのだから、ギリシア語やラテン語の引用文でも不正確なことが予想できる。

訳注 96 おそらくフランス革命を指すのだろう。

訳注 97 エレゲイアは詩の韻律の一種。テオグニスの詩は全てエレゲイア詩。

訳注 98 ダンテは 1314 世紀のイタリアの詩人で『神曲』を書いた。その中で地獄の様子を描写した。

訳注 99 Goethe, Die elegische Dichter der Hellenen von Dr. Weber, Frankfurt a. M. 1826. Goethe's Werke, vollstandige Ausgabe letzter Hand, XXXXV, Stuttgart 1833, pp.408-410.)これはゲーテが書いた書評のようだ。また、Nietzsche, F., Teognide di Megara a cura di Antimo Negri, Roma 1985, p.27, n.58. 参照。


 私はこの意見に全体的には賛成すべきだと思うが、この意見の所々に関しては、もっと正確にもっと明確に示すことができると確信する。それどころか、この文章は事実そのものに関して誤りがある。なぜなら、詩人は亡命中に全てのエレゲイア詩を書いたとゲーテは推測しているが、エレゲイア詩のかなりの部分は亡命中に書いたのではないからだ。だがこの誤りが何に由来するのか知るのは容易だ。この論文はいま触れた事をもっと詳しく解明してもっと明るい光で照らし出すだろう。

 それゆえに、この論文はまず以下の四点を解明するだろう。というのは私は以下のように思うからだ。

 1.テオグニスはキュルノスの為に書いた自分の詩集に『グノーモロギア(格言集)』(訳注 100あるいは『グノーマイ・プロス・キュルノン(キュルノスに寄せた格言集)』(訳注 101という題名をつけなかった事。

 2. テオグニスの生涯の限られた特定の時期に、このエレゲイア詩集を帰してはならない事。 m227

 .この詩人はこのエレゲイア詩集で、生涯のあらゆる時期に自己の精神や感情のあり様を述べているが、教師として格言を授けようとは決して思っていなかった事。

 4. 同様に、宴会と飲酒の詩もテオグニスの生涯の特定の時期に帰すべきではない事。


訳注 100 原文は単数対格だが、単数主格でカタカナ表記した。

訳注 101 原文は複数対格だが、複数主格でカタカナ表記した。


7. 最初に述べた点は、既にヴェルカーが明らかにしており(訳注 102、私が付け加えるような事は殆ど何も残っていないのだが、それでも「『グノーマイ・プロス・キュルノン(キュルノスに寄せた格言集)』という伝えられている題名」というベルンハーディの言葉(訳注 103が混乱を招くのではないかと思う。私が指摘するだけにとどめずに、なぜ必要以上に長く、重要でないこの問題に拘るのかと、読者は疑問に思うかもしれない。我々はテオグニスの詩が格言的でない事を指摘しようとしているのだから、誰かがこの題名をテオグニスの詩が格言的であるという証拠にしない為に、普通はこの小冊子に伝えられている通常の題名を先ず取り外さねばならない。テオグニスに関するスイダス(訳注 104の短い記述では、このキュルノスに寄せたエレゲイア詩集が『グノーマイ・プロス・キュルノン(キュルノスに寄せた格言集)』『グノーモロギア(格言集)』『パライネセイス(助言集)』という異なる題名で三回言及されている。だがこの記述は矛盾するし、いくつもの題名で言及されるのも不可解なので、信用に値しないと誰もが考えている。プルタルコス(訳注 105はテオグニスの詩集を『グノーモロギアイ(格言集)』と呼び、ビュザンティオンのステパノスとアプトニオスは(訳注 106『パライネセイス(助言集)』と呼んでいる。この第二章の冒頭で、テオグニスの詩集の運命について既に示した事実が、その原因である。これらの題名(『グノーマイ(格言集)』『グノーモロギアイ(格言集)(訳注 107』『パライネセイス(助言集)』)は上述した、少年が暗記すべき格言の抜粋を指している。


訳注 102 この段落の内容は、ベルンハーディへの言及以外は、ヴェルカーと同じ。 Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. LXXIII-LXXIV ページ参照。

訳注 103 Bernhardy, G., Grundriss der griechischen Litteratur, 2. Bearbeitung, 2. Theil, Halle 1856, p.457.

訳注 104 スイダスは十世紀に東ローマ帝国で編纂された百科事典。ニーチェは常にスイダスと書いているが、今日ではスダが正しい表記とされている。

訳注 105 プルタルコスは1〜2世紀の人、『英雄伝』の著者として有名。

訳注 106 ビュザンティオンは今のイスタンブール。ステパノスは六世紀の文法家で地名百科事典を書いた。その中のメガラの項でテオグニスに言及している。アプトニオスは四〜五世紀頃の修辞学者。

訳注 107 グノーモロギアイはグノーモロギアの複数形。


 問題の題名について、最古の証言がプラトン(訳注 108の『メノン』 p.95 にある。「ソクラテス 詩人のテオグニスもこれと同じ事を述べているのを君は知っているか? メノン ἐν ποίοις ἔπεσιν; (どのような詩でですか?) ソクラテス ἐν τοῖς ἐλεγείοις (エレゲイアの詩でだ)」、そして今でも読むことができる詩がこの後にくる。


訳注 108 プラトンは紀元前五〜四世紀の哲学者で、ソクラテスの弟子。ソクラテスと他の登場人物が対話する劇のような形式で、哲学の著作を書いた。ここの『メノン』 95d のギリシア語の引用文はシュナイデヴィンからの孫引きだろう。 Schneidewin, F. G., Delectus Poesis Graecorum elegicae, iambicae, melicae, I, Gottingae 1838, p.46. の脚注を参照。


 これらの言葉についてシュナイデヴィン(訳注 109が一石を投じている。というのはシュナイデヴィンは「 ἐν ποίοις ἔπεσιν;  (どのような詩でですか?)」という問いと「 ἐν τοῖς ἐλεγείοις  (エレゲイアの詩でだ)」という返答から、テオグニスはエレゲイア詩以外に他の種類の詩も書いたと推測すべきだと述べているからだ。これはかなり疑わしいし、 m228 我々は  ἐν ποίοις ἔπεσιν;  を「どのような言葉でですか?」(アリストパネス(訳注 110『雲』638 のように)あるいは「どのような格言でですか?」(アリストパネス『テスモポリア祭の女達』113, (訳注 110a『鳥』507 のように)と正しく解釈して、シュナイデウィンの解釈を拒絶すべきである。仮に、シュナイデヴィンが望むような意味をこの言葉が持っていたとしても、私は  ἐν ποίοις ἔπεσιν;  を受け入れない。私ならむしろ「 ἐν ποίῳ あるいは ἐν τίνι ἔπει; 」「どの詩でですか?」と書くだろう。ソクラテスの返事は確かに正しく応じてはいないが、それは日常会話ではよくある事だ。

 さて、本来の完全な状態の詩集を知っていたのは確実だと考えられているプラトンが、エレゲイアと呼んだのだから、テオグニスが自分の詩集にこの題名をつけた事は疑う余地がない。ヴェルカーが正しく判断したように、他の題名は他の書物の題名ではなくて、格言詩集の色々な呼び名だったのだ。(訳注 111


訳注 109 Schneidewin, F. G., Delectus Poesis Graecorum elegicae, iambicae, melicae, I, Gottingae 1838, p.46. の脚注を参照。

訳注 110 アリストパネスは紀元前五〜四世紀の喜劇作家。ここでは ἔπος ( ἔπεσιν の辞書の見出しの形)という単語の訳し方に関して、三ヶ所の用例が言及されている。

訳注 110a アリストパネス『テスモポリア祭の女たち』 113 行(ニーチェの原文では "Ar. Thesm. 113")には、該当する内容が見当たらない。だが、53 行には「格言」ではなく「言葉」と訳すべき箇所があるので、ニーチェの誤記かもしれない。

訳注 111 「ヴェルカーが」で始まる文はヴェルカーの LXXIV ページの 23-24 行の文を少し変えて引用している。ニーチェの文は "... non indices esse libro alicui peculiares, sed varia gnomicae poeseos vocabula." ヴェルカーの文は "Non indices hi sunt libro aliucui peculiares, sed varia gnomicae poeseos vocabula ..." でほぼ同じ。また、テオグニスの詩集の本の題名を論じたここまでの部分は、Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. LXXIII-LXXIV ページの内容に相当する。但し、プラトンを根拠にエレゲイアが本来の題名だとした結論はニーチェ独自のもの。また、シュナイデヴィンの学説の記述はヴェルカーにはないので、ニーチェはシュナイデヴィンも読んだのだろう。


8. 第二の点に進もう。大抵の誤りはこの点にあると思うので、私はこれを重要視している。それで私自身もこの問題で誤っているのではないかと心配する。

 詩人は亡命中にこのキュルノスに寄せたエレゲイア詩を書いたと、ゲーテ---あるいはゲーテがその意見に従ったヴェーバー(訳注 112---は考える。もっと後の、テオグニスが亡命から戻って貧困に苦しんだ時期だと、ヴェルカーは考える。同様にベルンハーディも以下のように述べている。「かなりの高齢でテオグニスが格言を書いた事は 527 行などの箇所からは結論してはならない、ただ 1077 行以下や 1131 行以下の社交的な詩の調子から推測できる。」(訳注 113亡命終了後だと、C. O. ミュラー(訳注 114は考える。なぜならテオグニスはずっと前に経験した苦難や争いを描写したからだとミュラーはいう。この件に関して学者たちの見解は大いに異なっている。その中でたった一人だけが---ドゥンカー, Gr. hist.(訳注 115---特にテオグニスを扱ってはいないのに、私と同じ結論を出したようだ。この結論を私は確信し、唯一信用に値すると信じている。すなわち、テオグニスは全生涯を通して、色々な時期に出来事や感情をこのエレゲイア詩に託して書いたのである。それを証明するために、生涯の特定の時期に書かれた事が自明なエレゲイア詩の断片を拾い出して年代順に並べて以下で示そう。 m229


訳注 112 ヴェーバーは、ゲーテが読んで書評を書いた本の著者。 Goethe, Die elegische Dichter der Hellenen von Dr. Weber, Frankfurt a. M. 1826. Goethe's Werke, vollstandige Ausgabe letzter Hand, XXXXV, Stuttgart 1833, pp.408-410.)参照。

訳注 113 Bernhardy, G., Grundriss der griechischen Litteratur, 2. Bearbeitung, 2. Theil, Halle 1856, p.459.

訳注 114 Müller, K. O., Geschichte der griechischen Literatur bis auf das Zeitalter Alexanders, Breslau 1841, p.216. の7行目に言及しているのだろうか。また頭文字の K はラテン語では C になる。

訳注 115 Duncker, M., Die Geschichte der Griechen, II, Berlin 1857, pp.61-72. ニーチェはこの書名をラテン語に訳して Gr. hist.Graecorum historia) と書いている。


53-58

既に示した様に(訳注 116

183-90(訳注 117

1109-14(訳注 118

173-85(訳注 119

833-36(訳注 120

1103-4(訳注 121



亡命以前に書かれた

(キュルノスの名前が出てくるエレゲイア詩の断片だけは誰も疑わない。実際にキュルノスに寄せたエレゲイア詩からのこれらの断片は真正のものと認められている。)(訳注 122

209-10 (訳注 123

1197-1202(訳注 124

亡命中に書かれた

549-54 (訳注 125

805-10(訳注 126

783-88(訳注 127



亡命終了後に書かれた

 テオグニスがひどい災難に苦しみ、祖国の状況に絶望し、過酷な苦難に押し潰されて、港に避難するように詩の中にしばしば逃避した時期に、すなわち亡命以前に、このエレゲイア詩の大部分を書いた事を、私は否定しない。


訳注 116 ニーチェはこの論文の I,4 でこの詩を引用して論じて、亡命以前に書かれたものだと述べている。

訳注 117 183-90 はこの論文の II,13 の訳注 276 参照。

訳注 118 1109-14 はこの論文の II,13 の訳注 290 参照。

訳注 119 173-85 173-80 の誤りだろう。このままでは上の 183-90 と三行が重複してしまう。この論文の II,13 の訳注 297 参照。

訳注 120 833-36 II,13 の訳注 287 参照。

訳注 121 1103-4 非道な行いがマグネシアの人々もコロポンもスミュルナも

         亡ぼした。キュルノスよ、お前たちも完全に亡ぼすだろう。

訳注 122 亡命以前に書かれたとニーチェが主張する、上の六つの詩の全てに「キュルノスよ」という言葉が出てくる。

訳注 123 209-10 亡命者には友人も忠実な仲間もいない。

         それは亡命そのものよりも辛い。

訳注 124 1197-1201 はこの論文の II,3 で引用されている。訳注 313 参照。

訳注 125 549-54 キュルノスよ、無言の伝令が嘆きに満ちた戦いを引き起こす、

         遠くを見張る物見場所から輝いて。

         さあ、足の速い馬に馬具を装着しろ。

         というのは騎兵は敵軍と遭遇するように思うからだ。

         そんなに遠くない。敵はじきに到着するだろう、

         もし神々が私の判断を欺かなければ。

訳注 126 805-10 後出箇所 II,13 の訳注 321 参照。

訳注 127 783-88 というのは、この私はシシリー島にも行った、

         エウボイア島のブドウの豊かな平野にも行った、そして

         葦の茂るエウロタス川の堂々とした町、スパルタにも行った、

         そして私が訪ねると誰もが喜んでもてなしてくれた。

         だが、それでも私の心には喜びが全く沸かなかった。

         さて、このように、祖国よりも愛しいものは何もない。

      ベルンハーディはこの詩を帰国後の作品だと看做した。ニーチェはそれに従ったのだろう。Bernhardy, G., Grundriss der griechischen Litteratur, 2. Bearbeitung, 2. Theil, Halle 1856, p.459.


9. さて、本当に私が正しくて、第二の点を正しく理解したのなら、すぐ上で述べた事から、前に約束して簡単に言及した第三の点が自ずから明らかになる。

 古代ギリシア人はエレゲイアの詩を笛や、時には竪琴のメロディーに合わせて歌った。なぜなら古代ギリシアではほとんどの詩は音楽と強く結びつき音楽を必要としたからだ。テオグニスの時代の詩は心の感情や情熱を表現したので、歌うのに適していた。それでテオグニスの時代には、このような習慣はまだ消滅していなかった。(訳注 128それゆえテオグニスの多くの断片も、感情が高ぶった情熱的精神から生まれたという特徴を持っている。というのはこれらの大部分の残存断片には道徳的格言が含まれているだけではなくて、何か痛ましい悲嘆や賎民に対する消しがたい怒りや、亡命で奪われた祖国に対する渇望や、キュルノスの健全さへの心使いや心配が明白に見られるからである。 m230 ただ格言を生徒に教えようとしているだけの教師がとても不機嫌な筈がない。 すくなくとも、テオグニスが語っている多くの物事が、確かに何らかの教訓を含んでいる事は否定すべきではない。それどころか、息子のように愛したキュルノスという若者が、貴族の習わしと生き方(訳注 129から転落するのではないかと、テオグニスはなによりも心配したようだ。一度歩み始めた道を決して踏み外さないように、強調してテオグニスはキュルノスを教育している。テオグニスが必死に守っている貴族の古い習わしを、この若者が維持していく事を、テオグニスは期待した。それだから、シラーのポーザ(訳注 130とテオグニスを比較するのは決して無意味ではないと思う。社会経験の豊富なポーザは、友人カルロスの人間性を愛して、自分が与えた助言をいつの日かカルロスが実行してくれるだろうと期待する。それで、この助言と友カルロスの為に、自分の命をためらわずに捧げる。


訳注 128 Edmonds, J. M., Elegy and Iambus, I, London 1982 (Reprint of 1931), p.1. によればエレゲイア詩は紀元前六世紀前半頃までは笛にあわせて歌われたが、紀元前六世紀後半頃からは音楽と分離したという。ニーチェによればテオグニスは紀元前 563484 年頃に生きたのだから、楽器の伴奏がない時期にかかっている。それで、この文章で音楽の伴奏がまだあったことを強調しているのだろう。

訳注 129 ムザリオン版では vitaequae となっているが、これは明らかに vitaeque の誤り。

訳注 130 十八世紀ドイツの作家シラーが戯曲『ドン・カルロス』を書いた。ポーザとカルロスはその登場人物。宗教と思想の自由を求めるネーデルラントの独立運動に共感したポーザは、王子カルロス(ドン・カルロス)を説得し、独立運動の指導者にして、スペイン王の圧制からネーデルラントを解放するという陰謀を準備する。だが陰謀が発覚してしまったので、王子カルロスではなく自分が指導者だと偽って死ぬ。この戯曲はヴェルディのオペラにもなった。


 実際に、私はテオグニスを読む時に常にそのような事を考えるので、決して格言集とは思わない。それでも、歴史的な知識を持たずにテオグニスを読む人が、現実にユリアヌス(訳注 131がテオグニスの詩と比較した、ソロモンの格言(訳注 132のようなものを見出したと信じてしまう事はよく分かる。それで今述べた事にちょうど関わるゲーテの言葉をここに書き写すのは無駄ではない。「たとえどんなものであろうと、詩人の言葉を一般的に解釈して、どうにかふさわしくなるように、自分たちの状態に合わせる事に、我々は慣れている。もちろんそうすることで多くの箇所は、引き離された元の文脈にある時とは全く違った意味を得る。テレンティウス(訳注 133の格言は老人や召使いの言葉では元の文脈にある時とは全く違った意味を得ている。」(訳注 134)


訳注 131 ユリアヌスは四世紀のローマ皇帝で背教者ユリアヌスとして有名。ギリシアやローマの異教文化がキリスト教より優れていると主張して、衰退していた異教を復興した。

訳注 132 ソロモンは紀元前十世紀の古代イスラエルの王で、後に、多くの詩や知恵文学が帰せられた。ソロモンの格言が旧約聖書に載っている場合もある。ムザリオン版は Salomonis で、 HK 版は Salamonis になっているが、ムザリオン版が正しい。

訳注 133 テレンティウスは紀元前二世紀のローマの喜劇作家。

訳注 134 ムザリオン版では後ろの引用符が欠落しているので補足した。 Goethe, Die elegische Dichter der Hellenen von Dr. Weber, Frankfurt a. M. 1826. Goethe's Werke , vollstandige Ausgabe letzter Hand, XXXXV, Stuttgart 1833, pp.408-410.


 それゆえに、最近トイッフェルが以下の様に述べて賛成したプルタルコスの意見と、私は全く異なる。 m231 「だが既にプルタルコスが彼の詩の本質的に散文的な性格を正しく認識していた。(訳注 135」それどころか、もし残存しているテオグニスの詩句に何か格言的なものが見られるなら---かなりのものが格言的な内容に属すと思われている---正しい文脈と順序からそのような詩句が遠ざけられてしまって、いつどのような機会にテオグニスが書いたのか、今は良く知る事ができないのを私は悲しむ。


訳注 135 Pauly, A., Realencyclopädie der Classsischen Altertumswissenschaft, 6 vols, Stuttgart 1839-1852. VI, p.1850. テオグニスの項目からの引用。但し、トイッフェルの文の "dieser Dichtart" がニーチェでは "seiner Dichtung" になっていて正確ではない。この辞典はパウリが途中で死亡した後にトイッフェルが完成させた。またこの論文の II, 5 の第三段落で言及された、プルタルコスによるテオグニスの詩の評価を参照せよ。


10. さて、宴会と飲酒の詩に関する重要な最後の問題が残っている。これらの詩が色々な時期に書かれた事を示すのは実に容易である。ただし、陽気な快活さや愛の喜びとは通常は無縁に思える老年期は当然除く。

1119-22 (訳注 136

773-82(訳注 137

756-69(訳注 138

1153-54(訳注 139



青年期に書かれた

1017-22(訳注 140

1129-32(訳注 141

成人で若い頃に---

1087-90(訳注 142

879-84(訳注 143

亡命していた時にスパルタで。


訳注 136 1119-22 私に人並みの青春を享受させて下さい、レトの子ポイボス・アポロン神と

          不死な神々の王ゼウス神が私を慈しんで下さいますよう、

          どんな不幸とも無縁に私が暮らせるようにと、

          青春と富で心を温めながら。

訳注 137 773-82 は前出箇所 I,2 の訳注 30 参照。

訳注 138 756-69 は詩の区切り方が不自然、この論文の I,2 II,12 の二箇所では 757-768 となっているので、ここは書き誤りだろう。前出箇所 I,2 の訳注 35 参照。

訳注 139 1153-54 私が豊に悪しき心配と無縁に

          無事に暮らせますように、何の災いも被らずに。 

訳注 140 1017-22 私の肌を言い様のない汗が流れ落ちる、

          同じ年頃の人の喜ばしくて美しい花の盛りを見て心乱れると直ぐに。

          というのは、花の盛りがもっと長続きしますように。

          しかし貴重な青春は夢のように短い。

          死に至る醜い老いが

          頭の真上にぶら下がっている。

訳注 141 1129-1132 行はこの論文の I,2 で引用されている。訳注 45 参照。

訳注 142 1087-90 はこの論文の II,12 の訳注 231 参照。

訳注 143 879-84 酒を飲め、私の為にタユゲトス山(スパルタの山)の頂きからブドウの木が産み出した酒を、

         老人が山の谷間にそのブドウの木を植えた、

         神々の友テオティモスが、

         プラタナスの森から冷たい水を引いてきて。

         この酒を飲めばお前は遥か彼方に耐え難い悲しみを追い払うだろう、

         酔っ払えばお前はずっと軽やかな気分になるだろう。


 他の全てのエレゲイア詩には頻繁に出てくるキュルノスの名前が、宴会の詩には出てこない事から、ヴェルカーが認めてるように「その詩は格言集の中には入っていなかった。」(訳注 144とすぐに結論できる。確かに、最良の訓戒で教育したい若者に、飲酒や恋愛の詩を捧げるのは不適切だと詩人は思った。だが、殆ど全ての古代の著述家がそれについては沈黙しているという理由と、すぐれた弁論作家のディオン(訳注 145テオグニスを恋愛や宴会の詩人たちとはハッキリと区別しているという理由で、テオグニスが別の機会にこれらの詩を創作したわけでもないとヴェルカーは考えている。というのは、ディオンが伝えている話では、どうして沢山の詩人の中からホメロス(訳注 146だけを選んだのかと父が尋ねると、アレクサンドロス(訳注 147は、全ての詩人が王にふさわしい訳ではないと以下の様に答えたという。「私が思うに、他の詩は宴会の詩も恋愛の詩も---おそらく、そのどれも民衆的だと言えるでしょう。それらは、私が思うに、ポキュリデス(訳注 148)やテオグニスの詩のように、多数の人々や民衆に助言し忠告します。」(訳注 149m232 だがこの意見も、テオグニス全体の中からそれだけが知られている、あの抜粋に関係づけるべきである。それで、この言葉からは宴会の詩の真正性について何も推測できない。だが宴会の詩について古代の著述家全員が沈黙している訳ではない。というのは、昔の事を熱心に研究したアテナイオス(訳注 150)は、以下のように述べて、 917-22 行と 1057-60 (訳注 151をテオグニスに帰している。「これらで本人が述べている様に、テオグニスも楽しく暮らした。」(訳注 152その当時は、現在のような残存詩全部の寄せ集めの形には決してなっていなかった。なぜなら、我々が所有している断片集をもしもアテナイオスが持っていたら、 テオグニスが享楽と無縁ではなかった事をもっと適切な断片を証拠に用いて示しただろう。(訳注 152aだが、これらの宴会の詩が本当にテオグニスに由来する事を証明する、確実な証拠はない事を認めなければならない。しかし、無名詩人の陽気な詩が、厳格な道徳の教師とみなされたテオグニスのものだと思われたのは不可思議だとして、それらの詩を全て疑って断片集の美しいものもまるごと全部削除する理由は何もない。それゆえに、ベルンハーディが私とほぼ同じ意見を述べた事を私は喜ぶ。II, 457. 「それに加えて宴会の詩の部分は朗読するのに良く生き生きとしているので、その部分はテオグニスの青年時代のみに合うと考えてよい。」(訳注 152bこの言葉から、今までベルンハーディだけがこれらの詩を作者であるテオグニスに帰していることが明らかとなる。---自らの正しさを信じてヴェルカーはテオグニスの詩の最後の、恋愛が主題の部分は、ある一つの写本からその他の断片に付け加えられた偽作だと考えた。なぜなら無名の作者によるこれらの詩は「テオグニスの愛童のキュルノスに寄せた格言集(グノーマイ・プロス・キュルノン・トン・テオグニドス・エローメノン)」というスイダスの言葉(訳注 153)から、テオグニスの詩集に付け加えられたからだという。だがこの意見には賛成できない。Cf. Welcker C.II, Bernhardy II, 458, C. O. Müller. (訳注 154



訳注 144 引用符の中のこの文は、ヴェルカーの文をそのまま引用したものではない。 Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826, LXXV ページ参照。

訳注 145 ディオンは 50 年ごろ生まれた歴史家でソフィスト。ディオン・クリュソストモスと呼ばれる。

訳注 146 ホメロスは紀元前八世紀頃のギリシアの詩人、トロイア戦争を題材にして『イリアス』『オデュッセイア』という英雄叙事詩を書いた。

訳注 147 アレクサンドロスは、紀元前四世紀に東方大遠征を行ってペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンダー大王のこと。ホメロスの『イリアス』を愛読した。プルタルコス『英雄伝』アレクサンドロス, 8 参照。

訳注 148 ポキュリデスは紀元前六世紀頃のギリシアの格言詩人。

訳注 149 上の「ディオンが伝えている話では」から始まって、このディオン『君主政治について』第二番からの引用文の終わり迄の文章は、少し変えたり省略したりしてはいるが、ニーチェがヴェルカーから書き写したもの。 Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826, LXXV ページ 25 行から LXXVI ページ 6 行参照。

訳注 150 アテナイオスは三世紀の人で宴会と食物に関する知識をまとめて『食卓の賢人たち』を書いた。

訳注 151 917-22 行と 1057-60 行 この行数はヴェルカー版の行数で、ニーチェはヴェルカーの LXXVI ページからそのまま書き写している事がこれで明白。普通のテオグニスのテキストの行数だと、997-1002 行と 993-996 行になる。

      997-1002 お日様が空で一つ蹄の馬を

           ちょうど正午に励ます時に、

           食事を終わりにしようよ、各々の心が望む量の食事を、

           あらゆる美食で胃袋を満たすのを終えよう。

           手洗水を早く外に持って来い、冠を中に運ばせろ

           美形のラコニア(スパルタ)娘に。

      993-96 アカデモスよ、もし君が魅力的な歌を歌って争うなら、

          また、歌の技を競う君と私の為に

          美しい年頃の子が賞品になるのなら、

          ラバがロバよりどれほど優れているかを君は悟るだろう。

訳注 152 アテナイオスからの引用文はムザリオン版では ἡδυπάθειαν の最後の ν が欠落しているので訂正して訳した。

訳注 152a この文の内容もヴェルカーからの受売り。Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826, LXXVI ページ参照。

訳注 152b ムザリオン版では前の引用符が欠落しているので補足した。

訳注 153 引用符の中のスイダスの言葉は、厳密な引用ではない。ニーチェは対格を主格に直し、代名詞をテオグニスと入れ替えている。

訳注 154 ムザリオン版では Welcker C.II となっているが、CII が正しい。 Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826, CII ページ参照。Bernhardy, G., Grundriss der griechischen Litteratur, 2. Bearbeitung, 2. Theil, Halle 1856, p.458.


11. テオグニスの詩の全般的性質については既に論じた。古代の人々、特にプルタルコス(訳注 155が思った程、テオグニスは味気なく冷たくて散文と同様という訳ではない事を示す為に、テオグニスが用いた技法について、少し付け加えたい。 m233


訳注 155 プルタルコスは1〜2世紀の人、『英雄伝』の著者。プルタルコスのテオグニス批評についてはこの論文の II,5 参照。


 まずテオグニスが用いたイメージと比喩を集めてみよう。

 114 悪い港(賎民)(訳注 156

 105 海に種をまく(カコス「賎民」に親切にすること)(訳注 157

 657-82(訳注 158 cf. 855 危機に瀕している船(都市国家)---この比喩は全部の中で一番すばらしく洗練されている。

 83 たった一隻の船に(優良な人を全て集めても容易に乗せることができるだろう)(訳注 159

 970 船が別の船から遠ざかる。(偽りの狡猾な友を非難する)(訳注 160

 457-60 船、舵、港での投錨(妻の貞操)(訳注 161

 575 舵手が岩礁を避ける(私が敵を避ける)(訳注 162

 ---詩人が詩の中の比喩で、こんなに繰り返し海のものを用いた事に、おそらく読者は驚くだろう。

   その原因は、とても盛んだったメガラの貿易と航海に見出すべきだろう。

 56 鹿(以前は粗野だった人々)(訳注 163

 949 鹿とライオン(帰国後の自分)(訳注 164

 293-94 ライオンは常に肉を食らうとは限らない(貧困に喘ぐ貴族)(訳注 165

 1057-60(訳注 166 ロバとラバ(二人の競争相手)

 847 拍車とくびきをあてがうべき動物(賎民)(訳注 167

 257 (貴族に好意を抱いている)雌馬が語る(訳注 168

 983 実り豊かな小麦畑を駆ける馬(それぐらい速やかに青春は去る)(訳注 169

 811(訳注 170 鳥(女友達)

 1097 池から飛び立つ鳥(賎民から逃れるキュルノス)(訳注 171

 993(訳注 172 ナイチンゲール(明瞭な声で歌うこと)

 347 犬が奔流を逃れる(テオグニス本人が危険を逃れる)(訳注 173

 602 懐の中の蛇(偽りの友)(訳注174

 537 玉ネギ(訳注 175からバラやヒヤシンス(訳注 176は生えない(賎民から高貴な人間は生まれない)(訳注 177

 ---メガラ人は玉ネギの貿易商として有名だった。アリストパネス『平和』245 行の古注(訳注 178

   プリニウス XIX,5,30, XX,9,40(訳注 179) m234

 ---ニサイアの平原(訳注 180には沢山のバラがあった ニカンドロス、於、アテナイオス XV,491(訳注 181

 215 タコ(狡猾な友)(訳注 182

 568 石と土(埋葬された人)(訳注183

 175 海に投げ出すべき怪物(貧困)(訳注 184


訳注 156 113-114 決して賎民の男を親しい仲間にするな、

          悪い港のように常に避けよ。

訳注 157 括弧の中はギリシア語で τὸν κακὸν εὖ ποιεῖν と書かれている。しかし、テオグニスのテキストでは 105 行では Δειλοὺς εὖ ἕρδοντι 「卑しい者(デイロス)に親切に...108 行では κακοὺς εὖ δρῶν 「賎民(カコス)に親切に...」であり、これとは異なる。おそらくニーチェが作文したギリシア語だろう。また 105-108 行はこの論文の III,15 で引用されている。訳注 351 参照。

訳注 158 ムザリオン版でも HK 版でも 657 となっているが、それだと詩の区切りが不自然。しかもこの論文の少し後ろの II,12 ではどちらの版(ムザリオン版 p.237)でも 667 になっているので、667 の誤りだろう。667-82 は後ろの II,12 の訳注 245 参照。

  855-856 しばしば、この国は民衆煽動者たちの悪さのせいで

       航路を少し陸地の方に逸れた船のように危険に近づいた。

訳注 159 83-86 全人類を隈なく探してもお前は見出せないだろう、

        一隻の船に全員が収まらないほど沢山の人を、

        舌と両眼に廉恥心が宿っていて、

        欲に駆られて恥ずべき財産を築きはしない人を。 

訳注 160 970 は八行の詩 963-970 の最終行。以下に全文を引用する。

        決して賛美するな、その人の性格や気性や性癖がどんなか

        はっきり知る迄は。

        とても多くの人が卑しくズル賢い性格を持っているが、ごまかしてている、

        長続きしない性格で上辺を装いながら。

        だが時間はその各々の性格を完全に暴き出す。

        というのは、私自身も早まって賛美したからだ、あらゆる点でお前の性格を知る前に。

        だが今はもう私は船のように遠く離れている。

訳注 161 457-60 若い妻は老いた夫には相応しくない。

         船のように舵に従わないし、

         碇でも止められない。綱をプツリと切って、

         しばしば日暮れに他の港に泊まる。

訳注 162 575-576 私を欺いているのは友人達だ、というのは私は敵を避けているのだから、

         ちょうど操舵手が岩礁を避けるように。

訳注 163 53-60 行は I,4 で引用されている。訳注 81 参照。

訳注 164 949 はこの論文の II,13 の訳注 319 参照。

訳注 165 293-94 ライオンはいつも肉を食べるとは限らない、たとえライオンが

         どんなに強くても困窮には捕まってしまう。

訳注 166 一般的なテオグニスのテキストの 1057-60 にはロバやラバは出てこない、この数字はヴェルカー版のテオグニスの行数になっている。 一般的なテオグニスだと 993-996 行になる。ニーチェはテオグニスの行数の表示に於いて版を統一してもいないし、どの版の行数かを明示してもいないので、混乱を招いている。この論文の II,10 の訳注 151 参照。

訳注 167 847-850 頭の空っぽな民衆を踏みつけろ、尖った刺し棒で殴れ、

          重い軛(くびき)をはめろ。

          これほど服従ずきな民衆はもう見つからないだろう、

          太陽が見下ろす全ての人間の中で。

訳注 168 257-260 行はこの後ろの II,12 で引用されている。

訳注 169 983-988 はこの後の II,12 の訳注 222 参照。

訳注 170 どのテオグニスの版でも 811 行には鳥は出てこない。内容が該当する箇所は 580 行になる。この論文の II,12 で引用されている。訳注 239 参照。

訳注 171 1097-1100 鳥のように、もう私は大きな湖から翼で飛び立つ

           賎民の男から逃れて、

           罠を壊して。お前は私の友情を失い、

           後で我々の賢さを知るだろう。

訳注 172 どの版でも 993 行にはナイチンゲールは出てこない。939 行を書き誤ったのだろう。

    939-942 私はナイチンゲールみたいに、よく通る声では歌えない。

         昨晩も酒盛りに行ったからだ。

         笛吹きのせいではない。だが

         歌の上手な仲間が私を離れている。

訳注 173 この論文の後ろの II,12 の訳注 210 の後半参照。

訳注 174 この論文の後ろの II,12 の訳注 252 参照。

訳注 175 ニーチェはギリシア語の σκίλλα (スキッラ)をラテン語で caepa 「玉ネギ」と訳した。またドゥンカーも Zwiebel 「玉ネギ」と訳した。Duncker, M., Die Geschichte der Griechen, II, Berlin 1857, p.62. だが Liddell/Scott, A Greek-english Lexicon, 9. edition, Oxford 1978 (reprint of 1940). によれば学名は Urginea maritima つまり海葱(カイソウ)になる。これは有毒植物で球根が玉ネギに似ている。おそらくそのせいで sea onion ともいう。

訳注 176 ヒヤシンス。厳密には日本語の「ヒヤシンス」の親戚の別の植物らしい。

訳注 177 535-538 行はこの論文の III,15 で引用されている。

訳注 178 アリストパネスは紀元前五〜四世紀のギリシアの喜劇作家。該当箇所の古注には「メガラの土地にはスコロドンが実った」とある。Dindorf, G., Aristophanis Comoediae, Tomi IV Pars III, Oxonii 1838, p.37. そして、Liddell/Scott, A Greek-english Lexicon, 9. edition, Oxford 1978 (reprint of 1940). によればスコロドンはニンニクであり、玉ネギではない。

訳注 179 プリニウスは一世紀に生きた古代ローマの貴族で『博物誌』の著者。

訳注 180 ニサイアはメガラの港町。

訳注 181 玉ネギとバラに関するアリストパネスなどの四ヶ所の典拠をニーチェはパウリのメガラの項から書き写したようだ。Pauly, A., Realencyclopädie der Classsischen Altertumswissenschaft, 6 vols, Stuttgart 1839-1852. IV, p.1719.

訳注 182 213-218 キュルノスよ、あらゆる友に合わせて変わる性質になれ、

          それぞれが持つ性格を受け入れながら。

          ずる賢いタコの性格を持て、

          タコは岩の上では岩に貼り付いて、そのような外観になる。

          今はこれに合わせ、また他の時は他の色になれ。

          ずる賢さは頑固さよりはるかにまさるものだ。   

訳注 183 567-570 青春を楽しんで私は遊ぶ。というのは命を失くしたら、

          長い間ずっと石の様に無言で土の下に横たわるからだ。

          愛しい太陽の光りを後にするだろう。

          貴族の私でも、もう何も目にしないだろう。

訳注 184 ギリシア語の ῥιπτεῖν には他動詞と自動詞がある。ここでは、ニーチェは他動詞とみなして「貧困を海に投げ捨てる」と訳しているが、後ろの箇所では自動詞とみなして「貧困から逃れる為に海に身を投じる(投身自殺する)」と訳している。後者の方が切迫感がある。173-180 はこの論文の後ろ II,13 の 訳注 297 参照。


 詩人が擬人化・神格化したのは

  希望  1135(訳注 185) 信頼  1137(訳注 185)     富  523, 1117(訳注 186

  自制  1138(訳注 185) 都市国家(が妊娠する)(訳注 187  貧困  351(訳注 188

  酒  873 (訳注 189)  大地  9 (訳注 190)       海  10.(訳注 190

 テオグニスが語らせているのは(訳注 191

     賎民        アイトンの子孫

     愛されている少女  ---雌馬---

 以下の神話上の事件ないし人物に詩人はふれている。

オデュッセウス 1123(訳注 192) アルカトオス、都市国家の英雄(訳注 193) ラダマンテュス 701(訳注 194

シシュポス 702(訳注 194)   ネストル 714(訳注 194)       ハルピュイア  715(訳注 194

ケンタウロス 541(訳注 195)  ボレアス 716(訳注 194)      カストルとポリュデウケス(訳注 196


訳注 185 1135-50 はこの論文の後ろ II,13 の訳注 283 参照。

訳注 186 523-524 おお富よ、賢明にも死すべき人間たちはあなたを一番崇拝する。

          というのは、あなたは災いをいとも容易に耐えるからだ。

     1117-18 はこの論文の後ろ II,13 の訳注 305 参照。

訳注 187 都市国家の妊娠は 39-42 行と 1081-1082 行。39-42 行はこの論文の後ろ II,13 の訳注 284 参照。

     1081-1082 キュルノスよ、この国は孕んでいる。貪欲な男を

           ひどい内紛の煽動者を産みはしないかと私は恐れる。

訳注 188 351 はこの論文の後ろ II,13 の訳注 299 参照。

訳注 189 873-876 酒よ、私はお前を讃え、かつ非難する。

          お前を完全に憎む事も完全に愛す事もできない。

          お前は良くて悪い。いったい誰がお前を非難できるだろうか。

          いったい誰がお前を賞賛できるだろうか、もし良識を持っているなら。

訳注 190 ニーチェはここでゲー(大地)と書いているがテオグニスの 9 行めではガイア(大地)が使われている。 また、ニーチェはここで θάλασσα (海)と書いているが、テオグニスの 10 行目では πόντος (海)が使われている。ニーチェはドイツ語で覚えていたテオグニスの意味からギリシア語を作文して書いたようだ。言及されている詩はこの論文のすぐ後ろの II,12 で引用されている。

訳注 191 それぞれの行数を示すと、アイトンの子孫 1209-1210(訳注 255 参照)、愛されている少女 579-580 861-864、雌馬 257-260 となる。 少女と雌馬の詩はこの後ろの II,12 で引用される。

訳注 192 1123 行はこの論文の II,13 で引用されている。訳注 309 参照。

訳注 193 アルカトオス 774 行。アルカトオスは地元メガラの英雄。メガラの王子や多くの人を殺したライオンを、アルカトオスが退治して王女と結婚しメガラの王になり、メガラの城壁を再建した。その時アポロン神が城壁再建工事を手伝ったという。メガラはアルカトオスにちなんでアルカトエ「アルカトオスの都市国家」とも呼ばれる。訳注 30 に該当詩の引用あり。

訳注 194 これらは 699-718 の詩で言及されている。この論文の II,13 の訳注 289 に引用あり。

訳注 195 ケンタウロスは上半身が人間で下半身が馬の姿をした野蛮な種族。

     541-542 ポリュパオスの子よ、横暴がこの都市国家を亡ぼしはしないかと心配だ、

          生肉を喰らうケンタウロスたちを亡ぼした横暴が。

訳注 196 カストルとポリュデウケスは 1087 行。この論文の後ろ II,12 の訳注 231 参照。


12. さて簡単な例によって若干の技法を示し終ったのだから、テオグニスの詩の色々な種類について、もっと詳細に説明しよう。宴会の詩に論述の基礎を据えてこの仕事をこなすとしよう。

 昔はメガラ人の貴族の間でも、スパルタの共同食事(訳注 197と同じような習慣が見られ、同じような習わしが尊重されていた。563-66(訳注 198, 309-12(訳注 199, c. ヴェルカー、 解説部 及び グロート、 hist. of Gr.(訳注 200 (訳注 201テオグニスのエレゲイア詩はいわばこの貴族の集まりから生まれた。それで、残存するエレゲイア詩からこの様な宴会の様子を想像できる。客が食べ飽きた時に杯に酒を満たし 994-1002(訳注 202、神々に御神酒を捧げ、主にアポロン神に祈りと歌を捧げる 943-44(訳注 203。それから、音楽や陽気な冗談にふける、コーモス(酒盛り)という宴会の後半部分になる。そして客が一人づつ順番に笛のメロディーに合わせてエレゲイア詩を歌う習わしだった。テオグニスの殆ど全ての詩はこの部類に属する。さらに、テオグニスはこの様な詩の題材を---種々雑多な種類に見えるが---社交的な暮らしや特に宴会から選んだようだ。 m235 というのは、それが宴会の客の感情や気分を感動させるのに最も適していたからだ。実際にテオグニスは、例えば友人を宴会や酒盛りに招く時に、楽しく上品に友人とおどけているし、1047-48(訳注 204, 997-1002(訳注 205, 879-84(訳注 206, あるいは、神々に賛歌を歌い祈りを捧げている。

1-4  アポロン神に(訳注 207)      5-10  再びアポロン神に

11-14  アルテミス神に(訳注 208)    15-18  ムサ神たちとカリス神たちに(訳注 209

337-40, 341-50  ゼウス神に(訳注 210) 757-768 ゼウス神とアポロン神に(訳注 211  

773  アポロン神に(訳注 212        カストルとポリュデウケスに(訳注 213

上に列挙した中で一番美しいのは、二番目のアポロン神に捧げた詩である。私は喜んでその詩を引用しよう。

    ポイボス(訳注 214よ主よ、畏き女神レトが、 (訳注 215

    両手で細い(訳注 216なつめヤシの木を握り、

    丸い池のほとりで不死な神々の中で一番美しい者を、あなたを生んだ時、

    デロス島(訳注 217全体がアムブロシア(訳注 218の香りに満ちて、

    果てしない広大なガイア(訳注 219は笑い、

    灰色の塩水の深い海は喜んだ。


訳注 197 スパルタには、十五人ぐらいづつ集まって一緒に食事する制度があった。プルタルコス『英雄伝』リュクルゴス 10-12. 参照。

訳注 198 563-66 宴会に招待され、とても知恵がある

         貴族の側に座らねばならない。

         その人が何か知恵を語る時は必ず耳を傾けろ、

         学んでその収穫を得て家に帰る為に。

訳注 199 309-12 宴会(共同食事)では賢い人であれ、

         まるでその場にいないみたいに何も気付かぬふりをしろ。

         冗談を言え、外ではリーダーになれ、

         一人一人の気性をよく知っているのだから。 

訳注 200 スパルタやメガラに共同食事の習慣があったという事を、ヴェルカーは肯定するが、 グロートは否定的。 Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826, XXXVII ページ。 Grote, G., History of Greece, III, 2. edition, London 1849, p.59, n.2.

訳注 201 「テオグニスのエレゲイア詩は」から始まって「社交的な暮らしや特に宴会から選んだ様だ。」まで続く長い文章は、 Müller, K. O., Geschichte der griechischen Literatur bis auf das Zeitalter Alexanders, Breslau 1841, p.219. のドイツ語の文章を、ある部分はそのままラテン語に訳し、ある部分はラテン語で要約したもの。

訳注 202 ムザリオン版では 994 となっているが、それでは詩の区切りが悪いし、少し後ろでは 997 となっているので 997 が正しい。

訳注 203 943-44 笛吹きの右隣に、ここに陣取って私は歌おう、

         不死なる神々に祈りながら。

訳注 204 1047-48 今は飲んで楽しもうではないか、立派なことを語りながら。

          その後で起きる事は、神々が面倒みるさ。

訳注 205 997-1002 はこの論文の II,10 でヴェルカー版の行数表示で 917-22 として言及されている。その箇所の訳注 151 を参照。

訳注 206 879-84 この論文の II,10 訳注 143 参照。

訳注 207 1-4 おお主よ、レト神の息子よ、ゼウス神の子よ、

        始める時も終える時もあなたを決して忘れません、

        いつも始めにも終わりにも中間にもあなたを歌い讃えます。

        あなたはどうか私に耳を傾け幸福を授け給え。

訳注 208 11-14 野獣を殺すアルテミスよ、ゼウス神の娘よ、昔アガメムノンが

         速い船でトロイアに旅する時に神殿を奉納した女神よ、

         私の祈りを聞き入れ給え、数多の不幸を遙か彼方に遠ざけ給え。

         これはあなたには些細な事、だが私には重要な事。

訳注 209 15-18 ムサ神たちよカリス神たちよ、ゼウス神の娘たちよ、あなた方は昔カドモスの

         婚礼に出席して美しい詩を歌った、

         美しいものは愛しいもの、美しくないものは愛しくないもの。

         この詩が不死な神々の口から出てきた。

訳注 210 337-40 行 キュルノスよ、親しい友らに報いる力と、敵どもより強い権力を

           ゼウス神が私に与えて下されば良いのだが。

           そうすれば、私は人間たちの間では神と見なされるだろう。

           もし私が借りを返してから死の運命に至るならば。

    341-50 行 オリュムポス山のゼウス神よ、どうか私の切実な祈りを叶え給え。

          私に、数多の災難の代りに、何か一つ良いことも享受させ給え。

          死んでしまいたい、もし、災いの心労から何の休息もなしに、

          あなたが悲しみの代わりに悲しみを私に与えるならば。

          というのは、そういう運命だからだ。奴らに天罰など全然ない、

          私の財産を力で奪って所有している奴らに。

          犬みたいに惨めな私は急流を渡った、

          雨期の増水した川で全てを失いながら。

          奴らのどす黒い血を飲みたいものだ。

          私の望みを叶える守護神が見守ってくれれば良いのだが。

訳注 211 757-768 はこの論文の I,2 の訳注 35 参照。

訳注 212 773 は前出箇所 I,2 の訳注 30 参照。

訳注 213 ムザリオン版では行数欠如だが、1087 行が該当する。この論文の II,12 の訳注 231 参照。

訳注 214 ポイボスはアポロン神の別名。

訳注 215 5-10 行。ヴェルカー版だと 929-934 行になる。

訳注 216 ニーチェの引用では ῥαδινῆς である。ベルク版テオグニスでは ῥαδινῆς で、ヴェルカー版テオグニスでは ῥαδινῇς なので、この引用はベルク版からということになる。 Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826, p.51. 及び Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.35.  

訳注 217 デロス島はエーゲ海にある小さな島でアポロンの神殿がある。神話では、ここで女神レトがアポロン神を産んだ。

訳注 218 アムブロシアは神々の食物。母乳の代わりに生まれたばかりのアポロン神に与えられた。『ホメロス風賛歌』「アポロン賛歌」 123-125.

訳注 219 ガイアは大地の女神


 例えば 929 (訳注 220ではテオグニスは、飲酒を楽しげに勧め、あるいは青春を自由に楽しむように強く勧め 877(訳注 221, 983-88(訳注 222、あるいは青春が去るのをひどく嘆いている 1017-22(訳注 223, 1129-32(訳注 224)。詩と音楽の結びつきとその必然性に関して私が既に指摘した事が、特にテオグニスに良く当てはまるようだ。それゆえ音楽の効果という点で、テオグニスより繊細に作詩した詩人は古代には存在しないだろう。そのせいで、宴会の詩の少なからぬ部分が素晴らしい音楽の伴奏つきで驚嘆すべき優美さと魅力を格言の力と憤激に結びつけたのである。例えば冥界を描写した時には、自分はそこで音楽に恋い焦がれるだろうと、テオグニスはひどく嘆いている。 973-78(訳注 225, 531-32(訳注 226, 533-34(訳注 227, 944(訳注 228.


訳注 220 929 行は内容が該当しない。直前で引用されている詩がヴェルカー版の行数では 929-934 行なので、 ニーチェが不注意からここに記したのだろう。飲酒を楽しげに勧めている詩とは 879-884 行を意図しているのかもしれない。

訳注 221 877-878 愛しい心よ、青春を楽しむがいい。また直ぐに誰か他の人たちが生まれるだろう、

         そして私は死んで黒い土になるだろう。

訳注 222 983-88 我々は饗宴に耽るとしよう、

         それが愛しく楽しい間は。

         というのは、輝かしい青春は考えのように素早く過ぎ去るからだ。

         突撃する馬よりも速い

         小麦を実らす平野を楽しみながら

         槍を使う人間の骨折り仕事に、騎手を急いで運ぶ馬よりも。

訳注 223 1017-22 はこの論文の II,10 の訳注 140 参照。

訳注 224 1129-32 はこの論文の I,2 で引用されている。訳注 45 参照。

訳注 225 973-78 ひとたび土に覆われた者は、

         暗がりへ、ペルセポネ(冥界の女神)の館へ降りて行った者は、誰一人

         竪琴や笛吹きに耳を傾けて楽しむことも、

         ディオニュソス(酒の神)の贈り物を享受して楽しむこともない。

         それがよく判っているので私は心から愉快に過ごそう、

         まだ膝が軽やかで頭が震えない間は。

訳注 226 531-32 いつも私の愛しい心は和む、

         笛が奏でる魅力的な音色を聴くときは。

訳注 227 533-34 私は存分に飲んで楽しみ、笛吹きの音色を聴いて楽しむ、

         音色が奇麗な竪琴を腕に抱えて楽しむ。

訳注 228 944 はすぐ上の 943-44 の訳注 203 参照。


 以下は宴会参加者の間で度々起こった口論に帰すべきである。行数 406-7(訳注 229, 993-96(訳注 230, 1087-90(訳注 231. m236


訳注 229 406-7 407-8 の誤りだろう。以下に引用する。

       最愛の友の君は失敗した。私のせいではない、

       君自身がいい判断をしなかったんだ。

訳注 230 993-96 はこの論文の II,10 の訳注 151 参照。

訳注 231 1087-90 カストルとポリュデウケスよ、

          美しく流れる河のエウロタス河畔の神聖なラケダイモン(スパルタ)に住まう神々よ、

          もし、いつか私が友人に害をなそうとしたら、私自身が害を受けますように。

          もし友人が私に何か害をなそうとしたら、その友人が二倍の害をうけますように。


 宴会参加者はよくスコリオン(訳注 232とナゾナゾ(訳注 233で遊んだ。テオグニスも実際にそうした証拠が以下になる。255-56

     一番正しい事が一番立派な事、健康が一番望ましい事、

     愛する人を得る事が一番嬉しいこと。(訳注 234

そしてアテナイオスが伝えている 1229-30

    というのは海からの死体が私を家に呼んだ、

    死んでるのに生きてる口から声を出して。(訳注 235


訳注 232 スコリオンは人生に役立つ忠告を含む歌で宴会で歌った。「宴席の歌」とか「酒宴歌」と訳される。アテナイオス『食卓の賢人たち』XV,693F(岩波文庫 pp.403-409)参照。 

訳注 233 宴会ではナゾナゾを出した。正解できなかった人は塩水を混ぜた酒を飲むとか、水割りしていないきつい酒を飲むとか、大きな杯で酒を飲み干すなどの罰ゲームを受けた。アテナイオス『食卓の賢人たち』X,448B-458 (岩波文庫 pp.249-259)参照。

訳注 234 ニーチェは友人のゲルスドルフ宛ての手紙に、自分たちのモットーとしてこの詩をギリシア語で引用している。 Nietzsche, F., Sämtliche Briefe, kritische Studienausgabe in 8 Bänden, herausgegeben von Giorgio Colli und Mazzino Montinari, II, München 1986, p.146. プラトン『ゴルギアス』451e にこれに似た詩がスコリオンとして引用されている。  

訳注 235 アテナイオスによれば、このナゾナゾの答えは、ほら貝。


 さらに、例えば 1209(訳注 236, 949-54(訳注 237 などの他の詩句にもナゾナゾが隠れているのを、学者たちは既に発見したと思っている。しかしながら、それらの詩句をシンプルに解釈しない根拠はない。


訳注 236 1209 はこの論文の後出箇所 II,12 の訳注 255 参照。

訳注 237 949-54 はこの論文の後出箇所 II,13 の訳注 319 参照。


 諸々の宴会の社交的性質を主題にしているこれらのエレゲイアの他にも、テオグニスは特定の出来事や事件についてエレゲイア詩を書いたが、その中で特に目立つ断片で恋愛を扱っている。というのは、テオグニスよりも賎民の男に好意を抱いていた両親の娘をテオグニスは愛したのだ。したがって、その両親は、テオグニスが激しく非難した、堕落して富裕さだけを渇望する精神を持つ部類の貴族だったのだろう。それにもかかわらず、その娘はどんなに貧しくても貴族の男を好んで、泉から水を汲む時にテオグニスと会ったのだと私は思う。つまりその時に

    そこで私は娘の胴にひじをあてて首にキスした、  265-66

    娘は口から柔らかな声を出す。(訳注 238


訳注 238 この詩は色々な解釈がある。テオグニスと貴族の娘との悲恋が描かれているという、この詩や下の詩の解釈では、ニーチェはミュラーに従っている。 Müller, K. O., Geschichte der griechischen Literatur bis auf das Zeitalter Alexanders, Breslau 1841, p.215.


 以下の恋愛詩のエレゲイア詩でテオグニスはしばしば少女に語らせている。

    私は美しい競争馬、でもとても卑しい  257-60

    男を乗せて、とても悲しい

    ときどき馬具をすり抜け

    卑しい騎手を退けて逃げそうになる。

    私は賎民の男を憎む、ヴェールを被ってそばに戻る。  579-80

    小鳥の軽やかな心を持ちながら。(訳注 239

    家族は私を裏切って男たちが来る時は  861-64

    何も許さない。それで私は進んで        m237

    夕方に(訳注 240外出して夜明けに戻る

    目覚めた雄鶏が鳴く時に。


訳注 239 貴族の少女と賎民の男の結婚式を描いていると、ニーチェはこの詩を解釈したのだろう。それに合わせて訳してみた。

訳注 240 ムザリオン版では Ἑσπερίη の気息記号が脱落している。


 その後テオグニスがこの少女と結婚したかどうかは私には分からない。テオグニスは少なくとも貴族の妻と始めた結婚生活を賞賛している。妻の名前はおそらくアルギュリス(訳注 241だった。

    キュルノスよ、貴族の妻より喜ばしいものはない。  1225-26

    私はその証人だ、お前は私が正しいという証人になれ。

    愚かにも私をからかって愛しい両親の悪口を言うな、(訳注 242

    アルギュリスよ、お前には隷属の日があったのだから。

    妻よ、国を亡命してから我々は他の多くの災難を被っているが

    痛ましい奴隷の境遇とは無縁だ

    人々は我々を売り飛ばしはしない。我々にも立派な国がある、

    それはレーテーの平野(訳注 243に横たわっている。


訳注 241 アルギュリスは一般にはただの奴隷女とみなされている。但し、1543 年にテオグニスのテキストを出版したウィネトスはアルギュリスをテオグニスの妻とみなした。 Schneidewin, F. G., Delectus Poesis Graecorum elegicae, iambicae, melicae, I, Gottingae 1838, p.117. "Sub Argyri --- quam Vinetus pro uxore poetae habebat..." Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826, p.135. "...Vinetus, cui...Argyris autem Theognidis uxor."

訳注 242 1211-16

訳注 243 レーテーの平野( Ληθαίῳ ... πεδίῳ )は、あの世を意味するという解釈が有力。だが、レーテーという名前の泉があるレバデイアを指すという解釈もある。ニーチェは後者に従っている。訳注 63 参照。  


 このエレゲイア詩の他にも、テオグニスは亡命以前に民衆支配に抑圧されながら、既に言及した(訳注 244シモニデスに宛てたエレゲイア詩 667-82(訳注 245 を書いたが、当時はテオグニスは都市国家の有様を密かに表現できて、比喩で賎民の監視をごまかす事ができた。

    私の舌を牛が強い足で踏んでいて      (訳注 246

    私は知っているのに私が喋るのを阻んでいる。


訳注 244 I,2 の訳注 54 の箇所と II,11 の訳注 158 を参照。またムザリオン版は commeravimus となっているが commemoravimus の書き誤りだろう。

訳注 245 667-82 シモニデスよ、もし以前のような財産を今でも持っていれば、

         私は貴族たちと交わっても悲しまなかったろうに。

         今や貴族は馴染みの私を素通りする。私は窮乏のせいで黙っている。

         多くの人々よりずっと良い暮らしをしていたというのに。

         だから今、我々は白い帆を下に下ろしたままで

         メロス島近くの海から遠くへと暗い夜に流されている。

         奴らは水を汲み出そうとはしない。海水が両舷を乗り越えそうだ。

         誰だろうと助かるのはとても難しい。

         奴らは眠っている。奴らは優れた操舵手を首にした。

         上手に見張っていた操舵手を。

         奴らは財産を力で奪い取る、秩序はなくなった。

         配分はもはや平等に公平ではない。

         荷運び人夫が支配している、劣悪な者が優れた者の上にいて。

         波が船を呑み込んでしまわないか心配だ。

         この謎を貴族のために仄めかしておこう。

         だが賎民でも、賢いなら理解するだろう。

訳注 246 815-16


 貧困に窮してテオグニスのもとにやって来て、気前よくもてなされたクレアリストスに宛てて、亡命中のテオグニスは詩を書いた。511-22(訳注 247船旅に出ようとする他の(訳注 248亡命者にはあらゆる幸運を祈っている。691-92(訳注 249

 冷静に貧乏を甘受するように、デモクレスを諭している。 923-30 (訳注 249a 柔弱で贅沢な生活に慣れていた亡命貴族たちは、苦しい労働や過酷な亡命生活を一層つらく感じたようだ。

    デモナクスよ、君は沢山の事を辛く感じる、(訳注 250 

    君の意にそわぬことを行えないからだ。

訳注 247 511-22 行 クレアリストスよ、あなたは深い海を旅してやって来た、

           ああ、哀れな人よ、無一文の身で無一文の私の所に。

           だから船の中に、ベンチの下に我々は置くとしよう、

           クレアリストスよ、我々が持っている物と神々が下さる物を。

           持っている中では最良の物を我々は差し出すだろう。

           もしあなたの友が誰か来たら、友の為にあなたが食事を出せ。

           我々が持っている物は何ひとつ出し惜しみしないだろう、だが

           あなたをもてなす為に持っていない物は出せない。

           もし誰かが私の暮らし向きを尋ねたら、こう答えよ。

           良い暮しの中では悪く、悪い暮らしの中ではかなり良い、

           それで父の代からの一人の友人を見捨てることはできないが

           もっと多くの人をもてなす事もできないと。

訳注 248 ムザリオン版では Alii となっているが、Alio の誤りだろう。

訳注 249 691-92 大海を渡る船旅をあなたが無事にうまく終えますように、

         そしてポセイドン神があなたを送り届けて友人達が喜びますように。

訳注 249a 923-30 行の翻訳は訳注 306 参照。 

訳注 250 1085-1086 行。ニーチェの引用詩のギリシア語は、あらゆるテオグニスのテキストと異なる。ニーチェが間違えて書き写したのかもしれないし、文法的に整合し意味内容も自然なので、ニーチェが独自に校訂したのかもしれない。ニーチェのギリシア語をそのまま訳した。以下を参照。 Bekker, I., Theognidis Elegi, secundis curis recensuit, Berolini 1827, p.49. Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.70. Bergk, T., Poetae Lyrici Graeci, editio altera, Lipsiae 1853, p.440. Schneidewin, F. G., Delectus Poesis Graecorum elegicae, iambicae, melicae, I, Gottingae 1838, p.110. Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826, p.51.


 597-98(訳注 251, 599-602(訳注 252 では、亡命中に心が狡猾で不誠実な事が明らかになった友人達を非難している。

 既に述べたように、ケリントスの貴族が賎民に敗北した事を、テオグニスは亡命終了後にエレゲイア詩で嘆いた。そのエレゲイア詩の四行 891-94(訳注 253が残っている。 m238


訳注 251 597-98 我々は今までずっと長いあいだ友人だろう。だがもう

         他の人たちと付き合え、お前の心をよく解っている人たちと。

訳注 252 599-602 行 お前が前にも通った道をまた行き来して、

           我々の友情を欺いているのを、私は見逃さないぞ。

           失せろ、神々の憎まれ者で、人間には不誠実な者よ、

           お前の胸には冷酷でずる賢い蛇がいる。

訳注 253 891-94 行  ああ私は無力だ。ケリントスは破滅した、

            レラントスの素晴らしいブドウ畑は荒れ果てた、

            貴族は亡命し、賎民が都市国家を治めている。

            ゼウス神がキュプセロス一族を滅ぼせば良いのに。 


 貴族の帰国後にある時、一人の賎民がテオグニスに取り入ろうとしたが、テオグニスはその男を厳しく拒絶した。453-56(訳注 254.

 1209-10 (訳注 255が何を意味しているのか、未だにどの研究者も解明していない。


訳注 254 453-56 おいお前、もしお前が愚かさと同じぐらい思慮を持っていれば、

         そして馬鹿なのと同じぐらい賢いなら、

         この市民の多くはお前を羨むだろう、

         今お前を羨まないのと同じぐらいに。

訳注 255 1209-10 行 私はアイトンの一族で、城壁が立派なテバイの都市に住む、

           父祖の土地から離れて。


13. 最後にキュルノスに捧げたエレゲイア詩集に関しては、この詩人が一つ一つのエレゲイア詩を書いた時には、将来いつか、それらのエレゲイア詩を集めて順序正しく並べて出版するとは、まだ思っていなかったに違いない。だが確かにそのようにして出版した筈だ。何故かといえば偽作と容易に見分ける為の印を、テオグニスが自分の詩集に自ら刻印すると公言しているような詩句(19 行以下)(訳注 256が残っているからである。さらにストバイオスにあるクセノポンの言葉(訳注 257から、この詩句がエレゲイア詩集の冒頭に、書物全体の最初に、あたかも表題のように置かれていたと推測できる(訳注 258。テオグニスが年老いてから、他の多くの詩をまとめた時に、この詩句を書いて他の詩に付け加えて世に出したと私は信じる。その理由は何よりも、1)テオグニスは自分を「賢い」と言っているが、傲慢にならずにそう言えるのは老人だけに違いないからである。2)さらに「世界中で有名な私はまだ国民全てを喜ばす事はできない。」(訳注 259と青年が書けないのは疑問の余地がないからである。テオグニスが既に亡命以前にギリシア全土で詩の才能で名声を得ていたとは思えない。そのうえ、この「まだ~ない」という文句は、亡命を終えた直後に老いたテオグニスが得ようとした、貴族と民衆の好意をまだ得ていなかった事を示している。


訳注 256 19-24 行 キュルノスよ、賢い私の印をこの詩に刻もう、

          そうすればこっそり盗作されないだろう、

          また誰もこの詩を悪く変えないだろう。

          そうして皆が言うだろう、

          これは世界中で有名なメガラのテオグニスの詩だと。

          だが私はまだ国民すべてを喜ばすことができない。

訳注 257 ストバイオスは五世紀の抜粋集の編集者。クセノポンは紀元前五〜四世紀の軍人・哲学者でソクラテスの弟子。クセノポンの言葉とは「これはメガラのテオグニスの詩だ」 Stobaeus, Serm. 88, p.499.Florilegium, 88, 14.)を指している。

訳注 258 「ストバイオスの LXXXVIII, 14. でクセノポンが『これはメガラのテオグニスの詩だ』と書いていて、それゆえこの文句が冒頭部から取り出された証拠になる。」とベルクが述べている。 Bergk, T., Poetae Lyrici Graeci, editio altera, Lipsiae 1853, p.383. "...unde confirmatur haec ex prooemio petita esse."

訳注 259 ὀνομαστὸς のアクセント記号と οὔπω から判断すると、ニーチェはこのギリシア語テキストではベルクのテキストではなく、ベルクに載っている異読を採用しているようだ。 Bergk, T., Poetae Lyrici Graeci, editio altera, Lipsiae 1853, p.383. だが、ひょっとしたらベルク本人のテキストをニーチェが誤って書き写しただけかもしれない。


 ところで、次にこれらのエレゲイア詩が扱っている主題を概説する前に、キュルノスとテオグニスの交流について少し述べるべきだろう。キュルノスへの呼びかけは単なる文学上の形式だとヴェルカーは述べている。なぜなら、実在の個人の名前ではなく、架空性を表すための伝統的な呼びかけとして「キュルノスよ」を、テオグニスは頻繁に用いたからだという。(訳注 260)(訳注 261また現実に叙情詩にもこのような慣用があったという。つまり叙情詩人は、友人にやさしく呼びかけることで、作り話ではなく現実に見せかけたのであり、それで感情に強く訴えようとしたという。あるいは、それで、他人ではなく友人に心の奥をさらけ出して、自分の考えを心の中から引き出そうとしたという。この慣用は格言詩にもっと適しているという。M239 なぜなら、父親のような優しさを示して、訓戒に特有の厳格さを緩和して(訳注 261a、もっと容易に若者たちの心に入り込めるからだという。


訳注 260 この文はヴェルカーのラテン語の文を書き写したもの。 Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. LXXIX ページ 15-17 行参照。

訳注 261 ここから始まってこの段落の最後まで続く長い文章は、ヴェルカーのラテン語の文をほとんど書き写したもの。但し、四ヶ所のコンマを省いている。また、間接話法にするために動詞を接続法や不定法に改めている。 Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. LXXVII ページ 9-17 行参照。

訳注 261a ムザリオン版では Mitigato だが、文法的に不可能。ヴェルカーの文は Mitigata なのでムザリオン版の誤記ないし誤植は明白。訂正して訳した。 Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. LXXVII ページ 15 行参照。


 私はこの意見とは全く異なる。なぜならヴェルカーの意見は、我々がテオグニスについて抱いているイメージに全く合わないからである。テオグニスは格言の教師ではなかった。テオグニスが戒めを授ける時に、何とかして少しでも容易に若者たちの心に入り込む為に、やさしく話しかける為の架空の人物を創り出したりはしなかった。テオグニスを格言詩人の一人と見なすべきではない。それは既に示した通りである。それどころか、詩の内容の多くは、いわば社交についてのテオグニスの個人的な考えである。なぜなら、テオグニスがある箇所では父親の様に、別の箇所では兄の様に、また別の箇所では友人の様にキュルノスに述べているように思えるのは、二人の年齢の隔たりのせいだからでる。というのは、よくあるように片方が父親のように助言する立場を、他方が若者の立場を引きずっていたが、その後に二人とも徐々に歳をとって年齢の隔たりが取るに足りなくなり、友人の関係になり、いわば年齢の隔たりを埋めたと思えるからだ。なぜなら、ヴェルカー以外の今の編集者たちが同意しているように、キュルノスはポリュパオスの息子のポリュパイデスだったからである。だが、アルキロコスの「グラウコスよレプティネスの子よ」や「エラスモンの子カリラオスよ」(訳注 262やヘロドトス VI, 86 の神託の「グラウコスよエピキュデスの子よ」や他の箇所の様に、個人の名前と父の名にちなんだ名前は神々への呼びかけでも人間たちへの話しかけでも、常に二つ一緒に用いられるとヴェルカーは主張している(訳注 263。それは起こり得るが必ずそうだという訳ではない。それはホメロスの多くの箇所『イリアス』 E. 18, 134, 303 (訳注 264及び無数の箇所「テュデウスの子よ」や六世紀のディオゲネス・ラエルティオスのソロン, I, 66 (訳注 265「リギュスティアデスよ」(訳注 266から分かるだろう。ポリュパイデスがキュルノスの父の名にちなんだ名前である事を最初にシュナイデヴィンが示した(del. Lyr. Graec. pol. ad Theog.(訳注 267)。だが、テオグニスがおそらく言葉の戯れを用いて、キュルノスがタコの性質(ポリュプー・オルゲーン)(訳注 268を持っているのを連想させる事を見落としてはならない。この言葉ではその名前の意味は「多くを得る」(ポリュパウー)(訳注 269あるいは「タコの」(ポリュプー)である。 m240


訳注 262 アルキロコスは紀元前七世紀のギリシアの詩人。この二つの断片は Bergk 72 Bergk 80Bergk, T., Poetae Lyrici Graeci, editio altera, Lipsiae 1853, p.551, p.554.

訳注 263 この文はヴェルカーのラテン語を書き写したもの。但し、間接話法に直している。Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. CI ページ 10-14 行参照。テオグニスの詩では「キュルノスよ」と「ポリュパオスの子よ(ポリュパイデスよ)」は一緒に並べて使用されていない。それ故に、ポリュパイデスはキュルノスとは無関係で、ポリュパイデスの詩は偽作だと、ヴェルカーは主張した。

訳注 264 E は第五巻を意味する。HK 版では『イリアス』ではなく『オデュッセイア』になっているが、ムザリオン版が正しい。但し、ニーチェのテキストでは呼格の Τυδεΐδη 「テュデウスの子よ」だが、ホメロスのテキストでは主格の Τυδεΐδης 「テュデウスの子は」となっている。

訳注 265 ムザリオン版の「ソロン, I, 66 」は I, 61 が正しい。つまりディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』 I, 2, 61. (ソロンの章)になる。

訳注 266 ムザリオン版でも HK 版でもニーチェのテキストは Λιγυστιάδη (リギュスティアデ)「リギュスティアデスよ」となっている。しかし、この論文の I,2 での言及では(Bergk, 20)と明記されていて、ベルクのテキストに依拠している事が分かる。ベルクのテキストは Λιγυαστάδη (リギュアスタデ)「リギュアスタデスよ」となっている。ニーチェはこれを書き間違えたのだろう。スイダスのミムネルモスの項によれば、これはミムネルモスの λιγύ (リギュ)「澄んだ響き」のせいでできたあだ名である。だが、リギュアスタデスは父の名前にちなんだ名だとニーチェは推測したのだろう。

訳注 267 ムザリオン版の del. Lyr. Graec. pol. はおそらく del. Poe. Graec. prol. (prolegomena)の誤り。Schneidewin, F. G., Delectus Poesis Graecorum elegicae, iambicae, melicae, I, Gottingae 1838, p.50. "Nobis Πολυπαΐδης est patronymicum Cyrni..." 「我々の説ではポリュパイデスはキュルノスの父の名にちなんだ名前である...」を指しているのだろう。

訳注 268 テオグニス 215 行。但し、どの校訂本でもそこで使われているのは πουλύπου (プーリュプー)。ニーチェが用いている πολύπου (ポリュプー)はもっと新しく標準的な形で辞書の見出し語になっている。

訳注 269 πολυπάου (ポリュパウー)は πολύ (ポリュ)「多く」と πάομαι (パオマイ)「得る」の合成語と考えて「多くを得る」と訳してみた。ニーチェの説明は不十分なのでこの訳に確信は持てない。ミュラーは πολυπάμων から "ein Herr von vielem Eigenthum"「多くの財産の所有者」と解釈しているが、ニーチェはこのギリシア語を不正確に引用したのかもしれない。Müller, K. O., Geschichte der griechischen Literatur bis auf das Zeitalter Alexanders, Breslau 1841, p.215, n.4.


 実際キュルノスは貴族仲間の間ではとても好まれ愛されたようだ。655-6 行「キュルノスよ、不運なお前と一緒に我々皆が悲しんでいる。」(訳注 270


訳注 270 ベルク版のテキストからの引用。ここでは 655 行だけが引用されていて、すぐ下で 656 行が引用されている。Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.56.  


 テオグニスは気づいていたが、キュルノスが正直に告白しなかったので、テオグニスはどうしていいのか分からず当惑したように、この若者がテオグニスと親密になったかどうかは不確かだと久しく思われている。

    口先だけで私を愛すな、違う考えや気持ちを持つな、(訳注 271

    もし、お前が私を愛し、お前に誠意があるならば。

    純粋な心で愛せ、あるいは私と縁を切って、

    公然と争って私を憎め。

    だがお前に対する他人の悲しみは一日限りだ。(訳注 272

    だが私はお前から少しの敬意も得ない、(訳注 273            

    お前は小さな子供みたいに私をだます。


訳注 271 87-90 行。ベルク版テオグニスのテキストからの引用。 Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.38.

訳注 272 656 行。ベルク版テオグニスのテキストからの引用。但し、ニーチェはわざわざ脚注の異読 σοι を採用している。それともニーチェの書き写し間違いか。 Bergk, T., Poetae Lyrici Graeci, editio altera, Lipsiae 1853, p.419.

訳注 273 253-254 行。この箇所のテキストはベルクもヴェルカーも同じ。


 都市国家に動乱が降りかかった時に、二つの党派の中道に従い 331-32(訳注 274, 219-20(訳注 275 しかも逆境にもあまり深刻にならないようにと、テオグニスはキュルノスに何度も注意した。だがその当時テオグニス自身は政治でその節度と中庸を実践することはほとんどなかった。当時、テオグニスは激しい怒りに駆り立てられ興奮して夢中になり、賎民に対する消しがたい嫌悪と堕落した貴族に対する強い憎悪と不誠実な友人への軽蔑をあらわにして、それらを適切に脚色して描いたエレゲイア詩を、自分がなだめようとしたそのキュルノスに捧げた。

    貴族と賎民が結びつく結婚について

    183-90(訳注 276) 537-38(訳注 277) 193-96(訳注 278

    都市国家の革命について

    53-58(訳注 279279-82(訳注 280289-92(訳注 281647-48(訳注 2821135-50(訳注 283

    賎民の際限のない不法行為について

    39-42(訳注 284) 43-52(訳注 285) 663-64(訳注 286) 833-36(訳注 287

    富の悪い影響について

    53-60(訳注 288) 699-718(訳注 289) 1109-14(訳注 290) 719-28(訳注 291.


訳注 274 331-32 私の様に平静に中道を歩め、

         キュルノスよ、人のものを他人に与えずに。

訳注 275 219-20 キュルノスよ、国民たちが不穏な時にあまり悩むな。

         私のように中道を歩め。

訳注 276 183-90 キュルノスよ、我々は血統の良い羊やロバや馬を求める。

         また誰でも血統の良い相手と掛け合せるのを望む。

         だが、貴族の男は賎民の卑しい娘と結婚するのを気にしない。

         もし娘が沢山の財産を持参するなら。

         女も、卑しいが金持ちの男の妻になるのを拒まない。

         いや、貴族の代わりに金持ちの男を望むのだ。

         財産を彼らは崇める。そして貴族は賎民から嫁をもらい

         賎民は貴族から嫁をもらう。富が血統を混ぜ合わせる。

訳注 277 537-38 なぜなら、玉ネギからはバラもヒヤシンスも生えないし、

         奴隷女からは心の真っ直ぐな子は決して生れないからだ。

訳注 278 193-96 その男は自ら、卑しい家の娘と知りながらこの女を

         家族として受け入れる、財産に説得されて

         名門の男が卑しい娘を。なぜなら

         強い必要性に迫られたからだ。

         必要なせいで男の心は我慢する。

訳注 279 53-58 はこの論文の I,4 で引用されている。訳注 81 参照。

訳注 280 279-82 選民の男が正義を守らないのは当然だ、

         その後で神々の怒りを畏れないので。

         というのは卑しい者は数多の不正を直ぐに企てたり、

         全て上手くやったと思うものだからだ。

訳注 281 289-92 今や貴族の悪が賎民にとって善となった。

         新奇な法律ではそう見なされるのだ。

         というのは羞恥心が滅んだからだ。恥知らずと傲慢が

         法に打ち勝って、世界中に広がっている。

訳注 282 647-48 今や既に、人間から羞恥心が消え失せた。

         その上、恥知らずが地上をうろついている。

訳注 283 1135-50 希望は人間界にいる唯一の良い神様だ、

          他の神々は人間を見捨てオリュムポス山へと去った。

          偉大な神である信頼は去った。節度も人々から去った。

          ああ友よ、感謝も地上を去った。

          信用できる正義の誓いはもはや人間界にはない、

          誰も不死な神々を畏れない。

          敬虔な人間という種族は滅びた、

          人々は掟も敬虔もわきまえない。

          だが、人間が生きて日の光を見てる間は、

          神々を畏れて暮らしながら、もっと長く希望を持つがいい。

          輝くもも骨を上から火にくべながら神々に祈るがいい。

          最初と最後に希望にお供えを捧げるがいい。

          不正な者たちのねじ曲がった言葉にいつも気付くがいい。

          奴らは不死な神々を全く気にかけずに、

          常に他人の財産を狙っている、

          卑しい行いに恥ずべき印をつけながら。

訳注 284 39-42 キュルノスよ、この国は孕んでいる。我々のひどい傲慢の

         処罰者を産みはしないかと、私は恐れる。

         というのは、この国民たちはまだ穏やかだが、煽動者たちは

         ひどい惨事に陥ろうとしている。

訳注 285 43-52 キュルノスよ、今まで貴族が国を滅ぼした事は一度もない。

         だが劣悪な奴らが傲慢な行いを喜び

         民衆を堕落させ、自らの利益と権力のために

         法律を不正な連中に委ねる時は必ず、

         その国は長くは無事ではないと思え、

         たとえ今はしごく平穏でも、

         劣悪な奴らがそれを好むなら、

         国を害して得る利益を好むなら。

         なぜなら、そこから党派争いと国民同士の殺し合いと

         独裁者が生まれるからだ。この国がそんな事にならないように。

訳注 286 663-64 理解しやすくするために 661-664 を引用する。

       ・・・卑しい事からは幸運が生じて、

       高貴な事からは不幸が生まれた。貧乏人が

       突然すごい金持ちになり、とても沢山の財産があった人は、

       突然たった一晩で全財産を失った。

訳注 287 833-36 ここでは全てが駄目になった。キュルノスよ、

         不死で至福な神々の誰にも責任はない。

         人間たちの暴力と卑しい欲と非道とが

         沢山の幸福から災難へと行き着いたのだ。

訳注 288 53-60 はこの論文の I,4 で引用されている。訳注 81 参照。

訳注 289 699-718 大多数の人にとって唯一の良さはこれだ、富裕なことだ。

          というのは他は何も利益にならないからだ、

          たとえお前があのラダマンテュスの思慮を持っているとしても、

          或いはアイオロスの子シシュポスより多く知っているとしても、利益にならない。

          シシュポスは策略でハデス(あの世)から帰って来た、

          人間の記憶を奪い心を奪う

          ペルセポネ(あの世の女神)を甘言で説得して------

          死の黒い雲に覆われて

          死人たちの身の毛のよだつ国にやって来た他の人は、

          それまで誰もそんな事を思いつかなかった、

          嫌がる死者の魂を閉じ込めている暗い門から

          これからも他には誰一人として抜け出しはしないだろう。

          だがそこからも英雄シシュポスは帰ってきた

          お日様の光の元へ、自分の知恵のおかげで。------

          たとえお前が神のようなネストルの優れた弁舌を持っていて、

          嘘を本当だと思わせるとしても利益にならない、

          或いはハルピュイア(旋風)たちや、ボレアス(北風)の足の速い子供たちより

          お前の足が速いとしても利益にならない。

          誰もが次の格言を肝に命じねばならない、

          富はあらゆる事にとても大きな力がある。

訳注 290 1109-14 キュルノスよ、以前の貴族は今や卑しく、以前の賎民は

          今や高貴だ。これを見て誰が耐えられるだろうか、

          貴族は名誉を奪われ、賎民は名誉を得るのを。

          貴族の男は賎民から嫁をもらう。

          彼らはだまし合いながら、お互いをあざ笑う、

          貴族だったことや賎民だった事を忘れて。

訳注 291 719-28 二人は同じぐらい豊かだ、沢山の銀や

         金と小麦畑の耕地と

         馬やラバを持っている人と、必要なものを持っている人とは、

         胃袋や胴体や足を快適にする為に必要なものを、

         男の子と女を楽しむ為に必要なものを。

         そういう時期が来て年頃の青年になった時に。

         これが死すべき人間の豊かさだ。というのは有り余る

         財産を全て携えてハデス(あの世)に来る人など誰もいないし、

         身代金を払って死を逃れる事もできないし、重い

         病や、不意に訪れる醜い老年を逃れる事はできない。


 また、テオグニスは非常に激しく、しばしば憤慨して敵を非難したにもかかわらず、既に述べたように(訳注 292、賎民の好意を得ようとして民衆の意向に従って自分の財産と生活を守ろうとした事が、どうして起こり得たのかと読者は驚くだろう。 m241 W. トイッフェルがその理由を正しく指摘した。(パウリ Theognis の項目)(訳注 293「その理由は、悲しい経験によって彼の民衆に対する気持ちが腹立たしいものになり、彼が理論を先鋭にすればするほど実践ではますます譲歩しなければならないという事と、彼が現実の屈辱に対して自尊心を守ろうとし、それを言葉にすることで屈辱に復讐しようとしているという事である。」


訳注 292 この論文の I,3 参照。

訳注 293 Pauly, A., Realencyclopädie der Classsischen Altertumswissenschaft, 6 vols, Stuttgart 1839-1852, VI, p.1849. 但し、このニーチェの引用文は不正確で、途中の単語 gereizte が脱落していたり、verbitterte v が欠落していたり、von が抜け落ちたり、余計なコンマが加わったりしている。だが、あくまでもムザリオン版のテキストに忠実に訳した。パウリがこの辞典の編集を始めたが途中で死亡し、トイッフェルが継承して完成した。今日の全部で八十三巻になる Pauly-Wissowa の原型。


 その当時テオグニスはひどい貧困に没落して、それが痛ましくて酷い重荷となっていることを、多くのエレゲイア詩で嘆いている。テオグニスは以下のように述べている。268-70(訳注 294

    というのは貧困は中央広場(訳注 295にも裁判にも来ないからだ、

    なぜならどこにいても、どこでも悪い扱いを受けるし、どこでも同じように物笑いの種になり、

    どこでも同じように憎まれるからだ。


訳注 294 「貧困は」のみ 267 行から。

訳注 295 中央広場と訳したギリシア語はアゴラ。都市国家の政治・経済・文化などのあらゆる活動の中心。


 それゆえ、貧しい者は死んだ方がましか 181-2 (訳注 296あるいは貧困から逃れるために海の中に逃げる方がましなのである 173-80(訳注 297貧困と逆境が人を正しい道から逸らして恥ずべき行為を教えるという事をテオグニスは特に嘆いている。テオグニスがしばしば意に反して卑しい行いをして非常に後悔している事をその詩句でそれとなく示しているのかどうかは判らない。649-52.

    ああ惨めな貧困よ、どうしてお前は私の両肩の重荷となって

    我々の体と心を辱めるのか。

    望まぬ私に、お前は無理やり沢山の恥ずべき悪事を教える、

    私は人間の間での高貴な事や立派な事を知っているというのに。(訳注 298

    cf. 351-54.(訳注 299  619-30.(訳注 300


訳注 296 181-2 はこの論文の III,16 で引用されている。訳注 370 参照。

訳注 297 173-80 にあるギリシア語の ῥιπτεῖν には他動詞と自動詞がある。ニーチェは II,11 でこの詩に言及した時は他動詞とみなして「貧困を海に投げ捨てる」と訳しているが、ここでは自動詞とみなして「貧困から逃れる為に海に身を投じる(投身自殺する)」と解釈している。他動詞の訳は括弧に入れて示す。

         キュルノスよ、貧困は他の何よりもひどく高貴な者を打ちのめす、

         白髪の老いやマラリアよりも。

         キュルノスよ、貧困から逃れる為なら、深淵の海へ身投げしたり、

         断崖から飛び降りなければならない。

        (キュルノスよ、貧困から逃れる為に、貧困を深淵の海へ投げ捨てたり、

         あるいは断崖から投げ捨てなければならない。)

         というのは貧困のくびきの下では、人間は何かを話すことも

         できないからだ。舌が縛られているからだ。

         キュルノスよ、陸の上でも海の広い背の上でも同様に、

         耐え難い貧困からの自由を何としても追い求めねばならない。

訳注 298 ベルク版テオグニスからの引用。ただし最後の単語のアクセントの位置が違うが書き写し間違えたのだろう。Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.56.

訳注 299 351-54 ああ、惨めな貧困よ、何故お前は他の男の元へ行かないで留まるのか。

         何故お前は、私が望まないのに、私を愛すのか。

         去れ、そして他の家に入れ。

         我々と一緒に、ずっとこの惨めな生活を共にするな。

訳注 300 ムザリオン版では 619-30 となっているが 619-20 の誤りだろう。

       私は心で悩みながら、ひどい貧困に翻弄される。

       なぜなら我々は、貧困という大波の頂上をまだ越えていないからだ。


 テオグニスが亡命の身で書いたこれらのエレゲイア詩の内容を見ると、生きる事に対する一種の軽視と軽蔑がとても多くの箇所にある。425-28

    地上の人間にとって何よりも最善なのは生まれてこない事

    鋭い太陽の光を見ない事。

    生まれた者はできるだけ速やかにハデス(訳注 301の門をくぐる事。

    そして沢山の土で墓を築いて横たわる事。          m242

    心よ、ふさわしい全てのものをお前に用意することができない。(訳注 302

    耐えろ、お前だけが立派なものを欲するわけではない。

    441-46.(訳注 303555-56.(訳注 304 1117-18.(訳注 305 1229-36.(訳注 306


訳注 301 ハデスは、あの世を支配する神。転じてあの世も意味する。

訳注 302 テオグニス 695-696 行。ベルク版テオグニスからの引用。Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.57.

訳注 303 441-46 まことに、完璧に幸運な人など誰も居ない。貴族は

         不幸を甘受する、しかも平静を保つ。

         だが賎民は不幸や幸運に同じ心で臨めない。

         不死な神々から様々な運命が死すべき人間たちに降り掛かる。

         だが甘受しなければならない

         不死な神々が下さるどんな贈り物も。 

訳注 304 555-56 つらい災難のただ中に居る人は耐えねばならない、

         そして神々に解放を請わねばならない。

訳注 305 1117-18 富よ、あらゆる神々のなかで最も素晴らしくて最も魅力的な神よ、

          あなたが居れば賎民でも高貴な人になる。

訳注 306 1229-36 行はヴェルカー版テオグニスの行数で、一般的なテオグニスの行数では 923-930 行になる。以下に引用する。

        デモクレスよ、このようにお金に関して最善なのは

        支出はするが注意する事だ。

        というのはお前が先に働いて、その成果を他の人に分け与える事もないだろうし、

        お前が物乞いして、奴隷になる事もないだろう。

        また、お前が年老いてもお金が全て無くなる事もないだろう。

        このような時世ではお金を持っているのが一番だ。

        お前が金持ちなら、友人は多い。お前が貧乏なら、

        少ない。貴族はもはや貴族でなくなる。


 亡命の身で、特に望郷の念に苦しんだ事をテオグニス本人が告白している。787:

    だが、それでも私の心には喜びが全く沸かなかった。

    さて、このように、祖国よりも愛しいものは何もない。(訳注 307



訳注 307 ベルク版テオグニスからの引用。Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.60.



 既に言及したあのアルギュリス(訳注 308が残っていたであろう祖国に、おそらくテオグニスは心残りがあったのだろう。1123-28

    私に災難を思い出させるな。私はオデュッセウス(訳注 309のような目にあった、

    オデュッセウスはハデス神(訳注 310の大きな館から逃れて戻った、

    その後で、策略で情け容赦なく殺した

    妻のペネロペに求婚した者たちを、

    長い間ペネロペはオデュッセウスを待っていた、愛しい子の傍らにとどまり、

    祖国の恐ろしい奥部屋に到着するまで。(訳注 311



訳注 308 この論文の I,3 の訳注 60 II,12 の訳注 241 参照。アルギュリスはテオグニスの妻だとニーチェは推測している。

訳注 309 オデュッセウスはギリシア神話の英雄。イタカ島の支配者だったが、トロイ戦争に遠征しトロイを陥落させるまで十年間戦った。その帰路の船旅がスムーズにいかず、世界中を十年間も彷徨い、死んだ予言者に会うために死者の国にも立ち寄った。同行した家来は旅の途中で全員失ったが、祖国を出てから二十年後にようやく帰国した。その頃には、地元の有力者たちはオデュッセウスが既に死んだと思って、財産目当てにオデュッセウスの妻のペルセポネに求婚し、オデュッセウスの館で傍若無人に振る舞っていた。オデュッセウスは変装して求婚者たちに気づかれずに帰宅した。そして自分の館にいた求婚者たちを皆殺しにした。

訳注 310 ハデスはあの世を支配する神。

訳注 311 おそらくベルク版テオグニスからの引用。 Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.71. 但し、 Πηνελόπῃς の下書きのイオータはニーチェの書き誤りかミスプリントだろう。テオグニスのテキストでここが下書きのイオータになっているものは見当たらない。



 無論この事に結びつけて以下を読むのがテオグニスにとって一番適切である。

    ポリュパオスの子(訳注 312よ、鋭く鳴く鳥の声を聞いた、(訳注 313

    鳥が死すべき者ども(訳注 314に耕作の季節を告げにやって来た。

    そして私の暗い心を打ちのめした、

    と言うのは、花が咲く私の畑を他人どもが所有しているからだ、

    ラバは私の為に犁(すき)の軛(くびき)を曳いているのではないからだ。



訳注 312 ポリュパオスの子はキュルノスを指す。この論文の II,13 で既に論じられた

訳注 313 1197-1201 行。ベルク版のテキストからの引用。Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.74.

訳注 314 死すべき者どもは人間を意味する。不死の神々と対比した表現。

 

 これらの事を思っている間に、テオグニスは賎民に対する怒りと憎しみでとても激しく興奮して、ゼウス神が復讐してくれるように願うのである。

    死んでしまいたいものだ、もし私が災いの心労からの何の休息も得ないで、(訳注 315

    悲しみに悲しみを重ねるのなら。

    奴らのどす黒い血を飲みたいものだ。(訳注 316

    キュルノスよ、人間の心はひどく惨めな目に遭うと縮こまるが、(訳注 317

    復讐すると再び大きくなるのだ。

    

訳注 315 343-344 行。ベルク版のテキストからの引用。 Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.46. 但し ἄντ᾽ の鋭アクセントはニーチェが誤って付加したのだろう。

訳注 316 349 行の前半のみ。上の詩句の続きなので、これもベルクからだろう。上記箇所参照。

訳注 317 361-362 行。


 貴族が賎民に勝利した戦闘よりも前に以下の詩句を書いたのだろう。

    キュルノスよ、我々に呪わしい災いがふりかかっている、(訳注 318

    こんなあり様では、何よりも死の運命が我ら二人を捕らえてほしいものだ。 m243


訳注 318 819-820 行。


 この(貴族が賎民に勝利した)戦闘の後に 949-54 行を書いたのだろうが、ここにワイセツなナゾナゾが隠れているとヴェルカーが考えている事に、私は全く驚かざるをえない。(訳注 319


訳注 319 949-954 行は二つの解釈がある。性的比喩だとする解釈と政治的比喩だとする解釈である。ヴェルカーは前者を支持する。"Nostri aenigmatis sensum aperit Rhiani comparatio pueri cum hinnuleo, amatoris cum venatore..." 「子鹿を少年とみなし、獲物をとる(ライオン)を恋人とみなして、リアヌスが、この謎の意味を解明している...Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826, p.134. ベルンハーディとドンカーは後者を支持する。Bernhardy, G., Grundriss der griechischen Litteratur, 2. Bearbeitung, 2. Theil, Halle 1856, p.459. Duncker, M., Die Geschichte der Griechen, II, Berlin 1857, p.71.

     949-954 ライオンのように力ずくで親鹿から奪った子鹿を

          爪にかけているが、私は血を飲まない。

          高い城壁に登っているが、私は都市を略奪しない。

          馬を軛で繋いでいるが、私は戦車に乗らない。

          行うが私は行わない、また完成するが完成しない。

          やるが私はやらない、終えるが私は終えない。


 亡命終了後に書いたと思われる断片が残っている。テオーロス(訳注 320の役目をつとめるキュルノスに、神の命令を細心の注意を払って書き記すようにと、テオグニスは諭している。(訳注 321


訳注 320 テオーロスは、神託を伺う為に都市国家がピュトにあるアポロン神殿に派遣する使節。

訳注 321 805-810 キュルノスよ、テオーロスの人はコンパスや物差しや曲尺よりも

          正確に書き記さねばならない、

          ピュトで神の巫女に尋ねて

          宝物豊かな神殿から神託を授かる人は誰でも。

          というのは、お前が何か付け加えたらもう直せないし、

          何か取り除いたらお前は神々からの咎めを免れないだろう。

ニーチェはこの詩に関して、ドゥンカーやミュラーの説明を受け売りしている。Duncker, M., Die Geschichte der Griechen, II, Berlin 1857, p.71. Müller, K. O., Geschichte der griechischen Literatur bis auf das Zeitalter Alexanders, Breslau 1841, p.217.


 ところで、このような内容を詳しく述べて余りにも長く論じたのは、いったい何の為なのかと思うかもしれない。こう弁明すれば十分だろう。すなわち以前にベルクがテオグニス詩集の内容について述べたことを、このようにして反駁する為である。テオグニス全体の中で、つながりのない抜粋された無数の格言以外にはもう何も残っていないとベルクは唱えた(訳注 322が、全く誤っていると私は思う。そしてそれに気づけば特定の歴史的事実や事件、テオグニスの生涯の特定の出来事が容易に判るような手掛かりが、この寄せ集めの中には、ほんの僅かしかない事をこのベルクの誤った主張は示していると私は思う。しかし私はこのように抜粋され編集された(訳注 323断片集には決して満足できなかった事を進んで認める。というのは内容の異なる別々の断片がしばしば同じページに載っているからである。


訳注 322 ニーチェはおそらくベルンハーディによるベルクの論文の要約を念頭においているのだろう。Bernhardy, G., Grundriss der griechischen Litteratur, 2. Bearbeitung, 2. Theil, Halle 1856, pp.462-463.

訳注 323 ムザリオン版のテキストでは componendo とあるが文法的に不自然。これは componendis の誤りだろう。そのように訳した。



                        III

  神々、道徳、都市国家に関するテオグニスの考えを検討する。


14.(訳注 324 テオグニスの生涯と作品については既に十分に述べたと思うので、三番目に挙げたこと、すなわち神や人間に関することについてテオグニスが考えていた事の叙述を試みるということがまだ残っている。多数の学者もこれに関しては独自の意見を何も唱えていないので、学者たちの一般的見解を簡潔に表しているベルンハーディの言葉を、最初に一読して検討するのがきっと良いだろう。 m244 II,457. 「ドリス人(訳注 325の政治的道徳的信念に、すなわち、思慮や社会的教養や財産所有や世渡り上手などの、あらゆる良さを貴族の血統に結び付けているカースト的道徳論に、エレゲイア詩全体が基づいている。それゆえ詩人は、支配している賎民を非常に嫌悪して、優良な者の譲ることができない権利を、核となる教義と経験で決然と表明している。」(訳注 326


訳注 324 ムザリオン版ではこの番号は欠落しているので訳者が補った。

訳注 325 ドリス人はギリシアの部族の一つ。テオグニスを含めてメガラの貴族はドリス人に属する。 

訳注 326 ベルンハーディでは "ihre Summe" だがニーチェの引用では "Die Summa" となっている。この論文の他の箇所でも、ニーチェの引用符の中の引用文はしばしば厳密ではない。Bernhardy, G., Grundriss der griechischen Litteratur, 2. Bearbeitung, 2. Theil, Halle 1856, p.457.


 またテオグニスに耳を傾ける者は、ドリス人の市民で貴族が語っている事を忘れてはならないと、既にヴェルカーが注意している(訳注 327。この意見にグロートただ一人が反対している(History of Grecs III c.9(訳注 328。ドリス人特有の力強さや特徴をテオグニスに見出して認めることができないと述べている。グロートはこれについてそれ以上詳しく論じていないが、それでもこの意見をよく考慮すべきである。


訳注 327 Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826. XL ページ 17-18 行目。"Theognidi auscultantes, civem Doriensem et generosum loqui nunquam obliviscimur."

訳注 328 ムザリオン版の Grecs HK 版の Grece Greece の誤り。 Grote, G., History of Greece, III, 2. edition, London 1849, p.61. "still less can we discover in the verses of Theognis that strengs and peculiarity of pure Dorian feeling..."


 たしかにテオグニスは由緒ある家系に生まれて生涯を通して貴族支配の為に大いに尽力し、貴族支配の再建と拡大を常に考えて願った。だがしかし、ドリス人貴族の本来の権力が根本から揺さぶられて、全てが変化する中で、貴族の戒めがいわば踏みにじられていた状況の真っ只中にテオグニスは居た。その結果テオグニス自身がある戒めについて疑いを抱き始めて、新しい信念を形成し始めた。実際にテオグニスがどのような道をたどって、都市国家や人間や神に関する事について、老いてからある程度自由に判断するようになったと思えるのかを、今日でも多くの証拠から知ることができる。

 テオグニスの詩の特徴は、テオグニスの神や道徳に関する考えが都市国家に関する考えと緊密に結び付いている事にある。それゆえ一方を他方から切り離して論じることはできない。この原因はメガラの都市国家の特異な形態に求めるべきだ。この都市国家は固定した階級すなわち所謂カーストで分け隔てられていて、人間や神に関わる事について必然的に、対立する二つの階級の対立する考えを生み育てた。 m245 つまり、この二つの階級の間に激しい闘争が生じると、テオグニスはその一方の貴族階級の熱烈な擁護者として振る舞い、詩の中でも人々を以下のように分類した。その一方をアガトス(訳注 329、すなわち貴族、立派な人々と呼んだ。こちらは神々に対するあらゆる敬神や敬虔さや人間のあいだでのあらゆる正義や徳を持っている。もう一方をカコス(賎民、劣悪な人々)あるいはデイロス(卑しい人々)(訳注 330と呼んだ。こちらには、あらゆる道徳的歪みやあらゆる不敬やとく神が宿っている。テオグニスでは、神や人間に関する考えが密接に関係している事が以上から明白である。


訳注 329 原文では冠詞がついた男性複数対格でトゥース・アガトゥースと記されているが、読者の便の為に、辞書の見出しの形である男性単数主格のアガトスに改めて、冠詞を省略した。

訳注 330 原文では冠詞がついた男性複数対格でトゥース・カクースとトゥース・デイルースと記されているが、読者の便の為に、辞書の見出しの形である男性単数主格のカコスとデイロスに改めて、冠詞を省略した。また括弧の中の日本語は訳者が付加したものでニーチェの原文にはない。


 テオグニスがどのような権限で貴族と賎民について判断したのか、そして、どのような理由にこの判断が由来するのかを、まず最初に検討しなければならない。

15.(訳注 331 貴族がどれほど権力があり、どれほど賎民より優れていたのかまとめると、貴族の地位と権威は五つの事実ないし特徴に基づいている。まず何よりも家系の古さと有名な血統が尊重された。特にこの血統では、しばしば英雄や神そのものを先祖としている。それに対して、いわば無益で有害な家系に由来する賎民は闇に覆われてしまい、その名前が生涯の長さを越えて知れ渡ることはなかった。テオグニスはそのことを二つの二行連詩(訳注 332で冷淡に述べている。

    ある者は貴族を非難し、ある者は賞賛する、 797-98

    だが賎民のことは何も覚えていない。

    奴隷の頭は決して真っ直ぐではなく、535-38(訳注 333

    必ずねじ曲がっている、傾いた首がついている。

    なぜなら、玉ネギ(訳注 334からはバラもヒヤシンス(訳注 335も生えないし、

    奴隷女からは心の真っ直ぐな子供は決して生まれないからだ。


訳注 331 ムザリオン版ではこの数字が欠落している。

訳注 332 二行連詩は二行だけの詩で、エレゲイア詩の最小構成要素。最短のエレゲイア詩はこの二行だけになる。もっと長いエレゲイア詩の場合は、二行連詩がいくつも並んでいる。つまりここでは、三つの二行連詩、または二つのエレゲイア詩と書くべきである。

訳注 333 ムザリオン版でも HK 版でも、ここのギリシア語はベルクのテキストと数ヶ所で少し異なるが、誤って書き写したか印刷ミスだろう。いずれにしても、ギリシア語の意味は変わらない。また、ムザリオン版では 538 行の最後の単語 ἐλευθἑριον では鋭アクセントがあるべき場所に気息記号があるが、少しでもギリシア語の知識があればこのような誤りはしないので、ただの印刷ミスだろう。

訳注 334 ニーチェはこの論文の II,11 でギリシア語の σκίλλα をラテン語で caepa 「玉ネギ」と訳したのでそれに従って訳した。またドゥンカーも Zwiebel 「玉ネギ」と訳した。 Duncker, M., Die Geschichte der Griechen, II, Berlin 1857, p.62. しかし Liddell/Scott, A Greek-english Lexicon, 9. edition, Oxford 1978 (reprint of 1940). によれば学名は Urginea maritima つまり海葱(カイソウ)になる。これは有毒植物で球根が玉ネギに似ている。おそらくそのせいで sea onion ともいう。

訳注 335 ヒヤシンス。厳密には日本語の「ヒヤシンス」の親戚の別の植物らしい。


 さらにまた、貴族は武器を使用し戦争の知識を持っていて、昔から都市国家を独占的に支配して賎民を誰も政治に関与させないという役目を担ってきて、 m246 有益で最善の結果になるように国政に携わってきたので、それ故に、

    キュルノスよ、今まで貴族が都市国家を亡ぼしたことは一度もない。----(訳注 336

 そしてさらにテオグニスは続ける、

    だが賎民どもが傲慢な行いを喜び(訳注 337

    民衆を堕落させ----

    そこから----党派争いと国民同士の殺し合いが生じる


訳注 336 43

訳注 337 上から順に、44 行、 45 行(後半は引用されていない)、 51 行(単語が一つ省略されている)。ニーチェは省略部を ---- (原文では連続した線)で示している。


 その上、法律の知識と解釈は貴族だけのものだった。それで、賎民は「法律を不正な奴らに委ねる」45 (訳注 338ようにテオグニスには思えた。

    賎民の男が正義を守らないのは当然だ(訳注 339

    その後で神々の怒りを畏れないので。


訳注 338 この「」の中の文句は、すぐ上の 45 行の引用で省略されていた後半部である。但し、ニーチェは単語を一つ省略し動詞を不定法に直し語順も変えている。

訳注 339 279-80 行。ニーチェの解釈に合うように訳した。 


 賎民は敬神とは無縁で神々を畏れないと、上の引用の最後の行で詩人は述べている。これが、自分たちの権威がそれに基づいていると貴族が信じた第三の要素である。貴族が全ての祭儀を管理していた。そのせいで神々は貴族に好意を持ち賎民には怒っていると、貴族は思っていた。

 ここでテオグニスの時代に特有の、より正確にはギリシア人の太古の時代からこのテオグニスの時代までずっと伝わった考え方に言及せねばならない。それは貴族がどんなに高い地位を保有していたかを明かにする。すなわち、もし神々が人間から捧げ物と祭儀を規則的に受けたら、神々はその人間に幸運と寵愛で報いねばならないという契約を、神々は人間と結んだと人々は信じたのである。これはピンダロス(訳注 340が述べている考えと違わない(P. 2,73)。(訳注 340aもし誰かが正義と確実の道を歩むなら、その人は必然的に神々の寵愛を得る。しかしもっと早い時代にこの事について、つまりいわゆるエウダイモニア(幸運・神の好意)とエクトロダイモニア(神の敵意)(訳注 340bについて、ピンダロスのように率直に表明されていたとは私は断言しない。有名なオイディプス王(訳注 341をこの問題の参考にすると、神々は自らが寵愛し幸運を授ける者を勝手に選ぶのであり、選ばれなかった他の者を贔屓して愛するよう強いられる事など決してない、少なくとも敬虔ゆえにそうなることはないという考えを、ソポクレス(訳注 342の時代には全ての人が肝に銘じて容易には疑わなかったようだ。 m247 少し話が逸れてしまったが、本題に戻ると、古い時代にはどれ程強くそう考えられていたか、テオグニスの多くの箇所から推測できる。徳と豊かさと名誉が相互に関連して緊密な絆で結び付いている事がそれらの箇所から明白になる。

  653-54 行 幸運で不死なる神々に愛されたいものだ、

        キュルノスよ、他の徳は何も望まない。

  525-26 行 というのは富を持つのは貴族に相応しいが、

        貧困に耐えるのは賎民に相応しい。

  171-72 行 神々に祈れ、神々は力がある。神々なしでは

        人間に良い事も悪い事も生じない。

  197-98 行 ゼウス神から正しく清らかに人間に生じる財産は、

        永遠に(訳注 343揺るぎない。


訳注 340 ピンダロスは紀元前六〜五世紀のギリシアの詩人。

訳注 340a (P. 2,73) はピンダロスの『ピュティア祝勝歌』2,73 を意味するはずだが、内容が該当しない。そこには「汝があるが如き者になれ」という文句がある。(この文句はギリシア語のテキストの 73 行めではなく 72 行めだが、ニーチェは手紙にこのギリシア語を引用して "Pind. Pyth. II. v.73" と書いている。また原文の最後の単語「学んで」を無視している。 Nietzsche, F., Sämtliche Briefe, kritische Studienausgabe in 8 Bänden, herausgegeben von Giorgio Colli und Mazzino Montinari, II, München 1986, p.247.)他方で『ピュティア祝勝歌』5,14(13) には「もし正義に従って歩むなら、あなたを大きな幸運が取り囲む。」とある。内容に多少の相違はあるが、ニーチェはこの出典箇所の数字を誤記したのではないだろうか。ニーチェは他のギリシア語の文は原語で書いているのに、この文はラテン語訳を書いている。原典を確認せずに不正確な記憶で書いたのではないだろうか。ギリシア語原文は以下を参照。 Schneidewin, F. G., Pindari Carmina, editio altera, Lipsiae 1855, p.70, p.95.

訳注 340b この二つのギリシア語はニーチェのテキストでは与格だが読者の便の為に主格で表記した。

訳注 341 オイディプス王はギリシア神話の英雄。その神話を元にしてソポクレスが『オイディプス王』という悲劇を書いた。

訳注 342 ソポクレスは紀元前五世紀のギリシアの悲劇作家。

訳注 343 ムザリオン版でも HK 版でも ἀεὶ とあるが、ベルク版を含めてあらゆるテオグニスのテキストでは αἰεὶ となっている。但し異読付きのベルク版の脚注の異読には ἀεὶ があるので、ニーチェはわざわざ異読を採用したのかもしれない。あるいは写し間違いかもしれない。どちらでも意味は全く同じ。 Bergk, T., Poetae Lyrici Graeci, editio altera, Lipsiae 1853, p.394.


 それとは反対に賎民の貧困から、犯罪に駆り立てる痛ましい窮状(アメーカニア)(訳注 343aが生まれるとテオグニスは考えている。

             ・・・貧困を(訳注 344

    アメーカニア(窮状)の母を得る・・・

    それは人間の心を誤りに導く、

    胸中の心を強い必要で誤らせて

    ・・・・・・・・・・

    貧困に従いながら、貧困は多くの悪事を

    嘘や欺瞞(訳注 345や致命的な争いを教える。

    ・・・・・・・・・・

    というのは貧困は困難なアメーカニア(窮状)をもたらすからだ。


訳注 343a このギリシア語はニーチェのテキストでは対格だが、読者の便の為に主格で表記した。

訳注 344 384-392 行。

訳注 345 ニーチェの引用では ἐξαπάπας となっているが、これは ἐξαπάτας の間違い。


 地位を獲得するのに、豊かさや上品な生活、すなわち華やかさがどれ程重要か、今でも頻繁に観察できる。

 それだけでなく、このギリシアのいわゆる貴族は、まさしく豊かなおかげで、教養を身につけて優雅な芸術をたしなんだが、対照的に賎民はどんな教養とも関係なく無知なまま全く惨めに暮らしていた。 m248

    奴らは---掟も法も知らずに、(訳注 346

    胸のまわりに着古した山羊皮をまとっていた、

    鹿のようにこの都市の外に住んでいた。

    ・・・・・・・・・・


訳注 346 54-56 行。 この論文の I,4 でもっと完全な形で引用されている。 ベルク版やヴェルカー版では語末のシグマが語末以外に使われている。 シュナイデヴィン版ではそれが訂正されている。 ニーチェの引用も訂正されているのでシュナイデヴィン版からの引用かも知れない。 或いはニーチェ自身が訂正したのかもしれない。Schneidewin, F. G., Delectus Poesis Graecorum elegicae, iambicae, melicae, I, Gottingae 1838, p.58.


 だが貴族には、貴族の規範に即して人生を正しく導く非常に多くの色々な訓戒と生活規則が先祖から子供や子孫に伝わっていた。それでテオグニスは下記以外には何も伝えないと述べた。

    ----キュルノスよ、私自身が  (訳注 347

    まだ子供の頃に貴族たちから学んだ事を


訳注 347 27-28


 それと正反対に、賎民は親から受け継いだ悪い素質と天性をどんな方法でも決して作り直したり改善したりできない。そのうえ賎民との交流や交際で成長するにつれてますます堕落する。

    賎民は腹から生まれた時から完全に劣悪ではない、(訳注 348

    賎民と交際して

    卑しい行いや邪悪な言葉や傲慢さを学んだのだ。

              ----教育しても (訳注 349

    お前は賎民を優良(アガトス)にはできないだろう。


訳注 348 305-307

訳注 349 437-438 行。ここでニーチェが引用したテオグニスのテキストはシュナイデヴィンと同じだがベルクを写し間違ったのかもしれない。Schneidewin, F. G., Delectus Poesis Graecorum elegicae, iambicae, melicae, I, Gottingae 1838, p.78.


 それゆえ、有名な古い家系と戦争・行政の知識と祭儀の管理と、富裕さと教養の威厳、さらに最良な徳性の形成に貴族の地位は基づいていた。そして貴族は賎民を服従させ隷属させる地位にあった。それゆえ貴族と賎民の間に大きな隔たりがある事をテオグニスは分かっていたので、貴族は賎民との交際をなんとしても避けねばならないと述べた事に、どうして驚くことがあろうか。さらに賎民について 343 行と 347 (訳注 350を思い浮かべるべきだろう。 そこでは商売の為に企てる旅を賎民と共にする事も賎民と共同して計画を立てる事も貴族に禁じている。それどころか、賎民の為になる事よりも無駄で無益な事はないとテオグニスは思っていた。というのは賎民は決して感謝などしないものだからである。 m249

    賎民どもに親切にするのは一番馬鹿げたほどこしだ。(訳注 351

    白い塩の海に種をまくのと同じだ。

    というのは深い海に種をまいても、お前は作物を収穫できないだろうし、

    賎民どもに良くしても、その見返りは何もないだろう。


訳注 350 343 行と 347 行はヴェルカー版テオグニスの行数。普通の行数だと 1165 行と 69 行になる。

      1165-1166 貴族たちと交際しろ、決して賎民どもに同行するな、

            商売の為に旅する時はいつでも。

      69-72 キュルノスよ、決して、信用して賎民と一緒に計画を立てるな、

          大切な事を成そうとする時は必ず、

          むしろ労を厭わず貴族を捜し求めよ

          キュルノスよ、遠い道のりでも歩いて行け。

訳注 351 105-108 行。 ニーチェの引用の ἔρδοντι はベルク版脚注の異読と同じ。だが気息記号を書き誤っただけかも知れない。 Bergk, T., Poetae Lyrici Graeci, editio altera, Lipsiae 1853, p.388.


 もし貴族が賎民を利用しなくてはならない状況になったら、言葉と表情では最良の友(訳注 352である事を示さなければならないが、実の所は賎民に対する消しがたい嫌悪に燃えていなければならない。cf. トイッフェル「絶対的な不信と根深い軽蔑がアストス(平民)(訳注 352aに対する感情でなければならない。但し平民に対する自らの精神的な優越性の公言にとても人あたりの良くとても親切そうな外観をまとうのである。この下劣な教えを詩人は素朴に全くあからさまに歌い器用さとして勧めている。」(訳注 353 283. 213. 313. 365. 63 行。(訳注 354


訳注 352 ムザリオン版でも HK 版でも amicissumum とあるがこれは amicissimum の誤り。

訳注 352a このギリシア語はニーチェのテキストでは複数形だが、読者の便の為に単数形で表記した。

訳注 353 トイッフェルからの引用文は不正確。元の文の "zu Bekundung und im Bewußtsein" がニーチェの引用では "zur Bekundung" と短くなっている。またコンマが一つ省略されている。Pauly, A., Realencyclopädie der Classsischen Altertumswissenschaft, 6 vols, Stuttgart 1839-1852. VI, p.1849.

訳注 354 ここの五つの数字はテオグニスの行数を示しているが、最初の四つは上の引用文の原典ではトイッフェルが文中に括弧で括って指示している。最後の一つに関しては、原典でトイッフェルはこの引用文の直前に 61 行以下の詩を指示しているが、63 行はその詩の一部。上述書上述箇所参照。 HK 版では最後の二つの数字を合成して 363-65 となっているが、全くの誤り。ムザリオン版が正しい。

    283-286 平民の男を信用して歩み出すな、

         誓いや友情を信用してしまって。

         たとえ、不死な神々の中で最も偉大な王ゼウス神を

         平民が保証の為の証人にしようとしても。

    213-218 は訳注 182 参照。

    313-314 酔っ払いどもの中では、私は大いに酔っ払う、正しい人たちの中では

         私は他の誰よりも正しい。

    365-366 本心を隠せ、口先ではいつも親切にしろ。

         卑しい奴らの心は怒りやすい。

    61-68 ポリュパオスの子よ、ここの平民の誰も本心から友とするな

        たとえ必要に迫られたとしても。

        口先で全員の友だと装え、

        だが真剣な事では、決して平民と関わるな。

        というのは、卑しい人々の心をお前は思い知るだろうからだ、

        実際は、奴らは全く信用できないし、

        奴らは裏切りとペテンと悪知恵を

        救いようがない程、好むという事を。

  

 ここにドリス人貴族のあの高慢な信念がみられる。この考え方がテオグニスにもある事を誰も否定しなかった。但し、あのエウダイモニア(幸運・神の好意)(訳注 354aに基づいていたこの信念の土台を、市民間の不和と革命が揺るがしたその当時に、テオグニスがずっと同じ考え方に固執したかどうか疑うことができるのであるが。


訳注 354a このギリシア語はニーチェのテキストでは与格だが、読者の便の為に主格で表記した。


16. 貴族の権威が次第に損なわれて日毎にますます下落したのは何故かと問うならば、最も重要な第一の原因を以下に求めるべきだろう。主に海岸の諸都市の多くの賎民たちが大規模で豊かな貿易によって自らの財産を増やし、豊かさの点では速やかに貴族と対等になり、浪費と贅沢の点では貴族をしのいだ(訳注 355。また多くの賎民は今や優美な上品さとも完全に無縁ではなくなり、特にしばしば長旅から見聞を増やして帰ってきたので、習わしや才能の修得に努めた。その上、貴族は昔からの生活様式をしっかり守らずに、しばしば贅沢と享楽にふけって武器の使用から次第に遠ざかり、家の財産を適切に管理せずに借金を増やしていったので、かなり多くの者が恥ずべき貧困に転落した。 m250 その結果、貴族はもう賎民と完全に隔たってはいなくなり、相互に結婚して財産を得ようとした。というのは賎民はその様な仕方で地位を欲して獲得したからである。「富が血統を混ぜ合わせる」(訳注 356とテオグニスは述べている。


訳注 355 ニーチェはこの文の内容ではドゥンカーに従っている。 Duncker, M., Die Geschichte der Griechen, II, Berlin 1857, p.54.

訳注 356 190


 次第に堕落した貴族と繁栄した賎民について上述した全てが、メガラ人の間でもテアゲネス(訳注 357の支配の後で実際に起こった。テアゲネスの支配自体より貴族にひどい損害をもたらしたものはなかった。テアゲネスは有名な家系の出身だったが長いあいだ民衆派を装って賎民の好意によって支配権を手に入れた。アリストテレス『政治学』5,3,1,(訳注 358のように「だが大抵は寡頭政治(訳注 359自体から民衆の指導者が出てくる時に寡頭政治は変化する」のである。


訳注 357 テアゲネスはメガラの貴族だったが、反貴族的・親民衆的な行為で民衆の支持を得て、メガラの僭主(独裁者)になった。だがじきに失脚した。

訳注 358 『政治学』5,3,1, はシュナイダー版アリストテレスの表示だろう。 ベッカー版アリストテレスだと『政治学』5,6,1,1305a37になる。 ニーチェは他の箇所では巻数をローマ数字で表記しているが、ここではアラビア数字で表記している。またこのギリシア語の引用はアリストテレスの原文とかなり異なっており、中間部を省略しても点線などで示していないし、語順を変えているし、「民衆の」という単語を勝手に付け加えている。ニーチェの他の箇所のアリストテレス『政治学』の引用はおそらくヴェルカーからの孫引きで巻数表示がヴェルカーと同じローマ数字だが、ここの引用はアラビア数字の巻数表示や上述の特徴からプラスからの孫引きだと断定できる。但しニーチェはプラスにあるカッコを省略したり、鋭アクセントの位置を書き写し間違えたりしていて完全に同じではない。Plass, H. G., Die Tyrannis, Bremen 1852, I, p.120, n.1.

訳注 359 寡頭政治とは貴族などの集団が支配する政治形態。


 上で簡潔に描写した時代にテオグニスは生きた。テオグニスは子供の頃に貴族の訓戒を学んだが、大人の頃にはこの訓戒があらゆる点で無視されてるのを見た。それゆえに神々の正義をテオグニスが疑い始めるのは不可避だった。その事をテオグニス本人が正直に告白した。

373-380  親愛なゼウス神(訳注 360よ、あなたには驚く、というのはあなたは万人を支配し(訳注 361

     崇拝されて大きな力を持っている

     ・・・・・・・・・・

     クロノスの子(訳注 362よ、あなたの心は罪深き人間と

     正しい者が同じ運命にあるのをどうして耐えられるのか。

     ・・・・・・・・・・

     不死なる神々の王(訳注 363よ、どうしてこれが正しいのか、(訳注 364

     人間が不正行為を避けて

     違法行為や偽誓に関与せず、

     正しくても、正しく報われない事が。


訳注 360 ゼウス神はギリシア神話の最高神。

訳注 361 375-376 行と 379-380 行は省略されている。

訳注 362 クロノスの子はゼウス神をさす。

訳注 363 神々の王はゼウス神をさす。

訳注 364 743-746


 とくにテオグニスが苦しんだのは、賎民出身の人が幸運なままで死ぬと、罪のない子孫が父の罪を贖なわない場合は、その罪を贖うものが誰もいないということである。それゆえに悪人の処罰について、ゼウス神が下記のような方法をとるように、テオグニスは願った。 m251

    父ゼウス神よ、悪党どもが傲慢を好む事がどうか神々のお気に召しますように。(訳注 365

    そして、神々の御心に叶いますように、

    神々を気にしないで、

    けしからぬ行為を邪悪な心で行う者、

    その者が後でその罪を償う事が。

    父の不正が将来その子に災いとなりませぬように。

    ・・・・・・・・・・

    それが至福な神々の御心に叶いますように。だが今は犯人は逃れて、

    後で他の者が災いを被る。


訳注 365 731-742 行、但し 736-740 行は省略されている。いくつかコンマが欠落し、鋭アクセントと重アクセントの誤りはあるが、733 行の最後の単語が同じなのでベルク版テオグニスからの引用だろう。Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.59.


 もし人間たちが神々の正義を疑い始めたら、神々の恩寵を得る道や方法がわからなくなるのではないかとテオグニスは懸念した。

    死すべき人間たちに神は何も定めなかった (訳注 366

    それを辿れば不死なる神々のお気に召す道を、

それで人間は日毎に堕落して神々から遠ざかることになった。


訳注 366 381-382 行。コンマやピリオドの違いはあるが、ベルク版テオグニスからの引用だろう。 Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.47.


 そのために、どんな人も完全に咎めを免れはしない事をテオグニスが嘆いている詩句が少なからず存在する。 1183-1184

    地上の人間で潔白な者などいない。 799(訳注 367

    完全に優良で公正な者など        615-16

    お日様は今の人間の中には誰も見出せない

    キュルノスよ、死すべき人間を照らす太陽の光は 1185-86(訳注 368

    咎めに値しない人など誰一人見出さない。


訳注 367 ありとあらゆるテオグニスのテキストや異読を調べたが、ニーチェのテキストのギリシア語引用と完全に一致するものは見当たらなかった。ニーチェが δ᾽ を書き忘れたとしか思えない。

訳注 368 1185-86 行は十九世紀の大抵のテオグニスのテキストの行数で、比較的新しいテキストだと 1183-1184 行になる。


 さらに貴族もひどい窮乏に苦しんで正しい道から逸れるように強いられた。とくに賎民から貴族に降りかかった貧困の苦労に貴族は全く不慣れで縁がなかったので、どんな事をしても貧困から逃れようとしたのだった。

649-52 ああ、みじめな貧困よ・・・・

    ---

    ---望まぬ私に、恥ずべき多くの悪事をお前は無理やり教える(訳注 369

179-80 キュルノスよ、陸の上でも海の広い背の上でも同様に

    耐え難い貧困からの自由を何としても追い求めねばならない。 m252


訳注 369 ベルク版テオグニスからの引用。「・・・・」では 649 行後半と 650 行が省略されている。ムザリオン版では αἰσχρὰ の後ろで改行されているのでこの単語が 650 行にあるような印象を受けるが、実際は 651 行にある。また「--- ---」の部分は δὲ が省略されているだけ。652 行は引用されていない。Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.56. この論文の II,13 では省略しないで引用されている。


 財産と祖国を奪われて、テオグニスはとうとう自分の生存に殆ど絶望して死そのものを願うようになったようだ。

    愛しいキュルノスよ、貧しい者は死んだ方がましだ (訳注 370

    耐え難い貧困に苦しんで生きるよりも。

cf. 425-29. (訳注 371


訳注 370 181-182

訳注 371 425-29 行は区切り方が不自然なので 425-28 行の誤りだろう。ここに引用する。

      地上にいる者にとって何よりも最善なのは生れてこない事、

      明るい太陽の光を見ない事。

      生れた者はできるだけ素速く冥土の門を通る事、

      そして沢山の土で墓を築いて横たわること。


 その後テオグニスはもっと事態に順応して、もっと冷静な気持ちであらゆる災難に耐えた。下記で述べているように、テオグニスはその事を認めた。

444-46      不死なる神々から---ありとあらゆる贈り物が (訳注 372

    死すべき人間たちにやって来る、だが

    不死なる神々が何を与えようと、その贈り物を我慢して受け入れねばならない。

(訳注 373・・・・・・・・・・

    お前は不可能なことで苦痛を増やして

    苛立ったり悩んだりするな、友を悲しませるな

    敵を喜ばせるな。神々が定めた贈り物を

    死すべき人間は容易には逃れられない、

    波打つ海の底に沈むか、

    暗いタルタロス(訳注 374に逝くのでなければ。

    

訳注 372 「---」の部分は δὲ が省略されているだけ。また 444 行の前半は省略されている。ベルク版テオグニスからの引用。 Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.49.

訳注 373 1029-1036 行。但し 1029-1030 行は省略されて点線になっている。ベルク版テオグニスからの引用。Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.68.

訳注 374 タルタロスは地下にある冥界。


17. あと一つの点が残っているが、それについては証拠よりも推測によって事情を良く把握することができる。すなわちテオグニスが、既に生涯の終わりに近い頃に帰国してから、祖国で以前よりずっと中庸な政治姿勢を示し、神々と人間に関する以前の見解の多くを概ね放棄して、とくに賎民の価値について幾分もっと自由に判断するようになったとしか思えない。実際に、決して貧困を非難しないように、テオグニスはキュルノスに諭している。(訳注 375

    腹を立てて、ひどい貧困や  (訳注 376

    惨めな貧乏で人を非難するな。

    なぜならゼウス神はそのつど違うように天秤ばかりを傾けるからだ、

    ある時は金持ちになり、ある時は一文無しになる。


訳注 375 ニーチェはこの段落の内容ではドゥンカーに従っている。 Duncker, M., Die Geschichte der Griechen, II, Berlin 1857, p.71.

訳注 376 155-158 行。ベルク版テオグニスからの引用。Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.40.


 悪い事も良い事も神々が人間に割り当てるのであり、全く神々の意向次第であるという考えに、テオグニスは完全に落ち着いたようだ。 m253

    キュルノスよ、誰も自分の破滅や繁栄に責任はない、(訳注 377

    神々がこの両方の贈り主。

    人間の誰一人として心得て行動していない

    最後に良い結果になるか悪い結果になるかを。

    ・・・・・・・・・・

    人間は何も判らずに空しい事にはげむ。

    だが神々は御意向通りに全てを成し遂げる。


訳注 377 133-142 行、但し 137-140 行は点線部で省略されている。ベルク版テオグニスからの引用。Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854, p.39.


 もう出発点になったグロートの言葉(訳注 378に戻るとしよう。自分の人生があらゆるものやあらゆる考え方の変革の時期にぶつかった時に、テオグニスは少年の頃に学んだ考え方を変えずにそのまま維持する事はできなかったという事実が以上で明かになっただろう。そこからグロートの言葉が示している事が明かになる。ドリス人本来の力強さと特徴がこの時代に減少し損なわれている事が、テオグニスに認識できる事実を承認せねばならない。


訳注 378 前出、この論文の III,14 参照。 Grote, G., History of Greece, III, 2. edition, London 1849, p.61. "still less can we discover in the verses of Theognis that strengs and peculiarity of pure Dorian feeling..." 






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訳者による文献案内




ニーチェ『メガラのテオグニスについて』


  イタリア語訳

  Nietzsche, F., Teognide di Megara, a cura di Antimo Negri, Roma 1985.

    ニーチェは書名を省略して著作者名だけしか言及していないことが多い。それらの書物の題名や出版年を、このイタリア語訳は脚注に明示しているのでとても役に立った。


  ドイツ語訳(「III. 神々、道徳、都市国家に関するテオグニスの考えを検討する。」の部分だけ)

  Nietzsche, F., Gesammelte Werke, Musarionausgabe, I, München 1922, pp.439-448.


  ドイツ語での要約

  Nietzsche, F., Gesammelte Werke, Musarionausgabe, I, München 1922, pp.433-439.

    少し誤りがあるのが難点。


  解説

  西尾幹二『ニーチェ』第一部、中央公論社 1977 年、pp.350-358.

    詳しく言及しているのは、おそらく日本語ではこの書物だけだろう。



テオグニスの翻訳


  日本語訳

  『世界人生論全集』第一巻、筑摩書房 1963 年に所収、 久保正彰訳『エレゲイア詩集』


  英語訳

  Edmonds, J. M., Elegy and Iambus, I, London 1982 (Reprint of 1931).

    Loeb Classical Library の緑色の本だったが、現在は、インターネットの Perseus Digital Library で無料で閲覧できる。ギリシア語原文との対訳。

    テオグニスに言及している古代の文献の引用(原文と英訳)もある。 

  Gerber, D. E., Greek Elegiac Poetry, London 1999.

        Loeb Classical Library の緑色の本、ギリシア語原文との対訳。 

  Wender, D., Hesiod and Theognis, New York 1982 (Reprint of 1973).

    Penguin Classics の安価な本。平明な英語で読みやすい。

  

  ドイツ語訳

  Hansen, D. U., Theognis, Darmstadt 2005.

    ギリシア語原文との対訳。

  Weber, W. E., Die Elegischen Dichter der Hellenen, Frankfurt am Main 1826.

    ゲーテが読んだ本。ヴェルカー版テオグニスのテキストの翻訳。行数表示がないのが不便。


  フランス語訳

  Carrière, J., Théognis, nouvelle édition, Paris 1975.

    Budé の本。ギリシア語原文との対訳。

  http://remacle.org/bloodwolf/poetes/theognis/sentences.htm

    Patin, M., 1877 年の翻訳。インターネットで無料で閲覧できる。1231 行以下は無い。ギリシア語原文もある。


  イタリア語訳

  Garzya, A., Teognide, Elegie, Florenz 1958.

    ギリシア語原文との対訳。注釈もある。

  Vetta, M., Teognide, libro secondo, Roma 1980.

    1231 行から最終行までのギリシア語原文との対訳。詳細な注釈もある。ニーチェの学説に短く言及している。


  スペイン語訳

  Adrados, F. R., Líricos Griegos, II, Barcelona 1959.

    ギリシア語原文との対訳。


テオグニスのギリシア語のテキスト


  Bergk, T., Anthologia Lyrica, Lipsiae 1854.

    ニーチェが用いたテキスト。異読記載がない。 

  Bergk, T., Poetae Lyrici Graeci, editio altera, Lipsiae 1853.

    おそらくこれもニーチェが用いたテキスト。異読記載がある。

  van Groningen, B. A., Theognis, Amsterdam 1966.

    1231 行以下は載っていない。非常に詳細な注釈書。テキストは細切れで載っている。

  Harrison, E., Studies in Theognis, Cambridge 1902.

    ギリシア語テキストと詳しい解説。三ページ弱を使ってニーチェの学説に言及している。

  Hudson-Williams, T.,The Elegies of Theognis, New York 1979 (Reprint of London 1910).

    詳しい解説や詳細な注釈もある。ニーチェの学説に詳しく言及している。テオグニスに言及している古代の文献の原文の引用もある。

  West, M. L., Iambi et Elegi Graeci, editio altera, I, Oxonii 1989.

    Oxford Classical Texts の本。 

  West, M. L., Delectus ex Iambis et Elegis Graecis, Oxonii 1980.

    Oxford Classical Texts の本。上記の初版本からの抜粋だがテオグニスは全部載っている。

  West, M. L., Theognidis et Phocylidis Fragmenta, Berlin 1978.

    Kleine Texte für Vorlesungen und Übungen の本。テオグニスの抜粋だが West 独自の順番で詩を配列してある。

  Welcker, F. T., Theognidis Reliquiae, Francofurti ad Moenum 1826.

    ニーチェが用いたテキスト。前半はラテン語でテオグニス関して詳細に解説している。一般的なテオグニスのテキストとは詩の配列と行数が異なるため、行数対照表がある。

  Young, D., Theognidea et Gnomica, Stuttgart 1998 (Reprint of Leipzig 1971).

    Teubner の本。異読の記載が最も充実した最良のテキスト。詳細なギリシア語索引が便利。



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訳者 蒲生四郎